METの「タンホイザー」



 毎日遊び歩いているようで恥ずかしいのだが、昨日は、3日間連続で仙台に出て、恒例、メトロポリタン歌劇場のライブビューイングを見てきた。今回もワーグナー(→昨年3年前)。やはりレヴァイン指揮で「タンホイザー」である。序曲は耳慣れた曲だが、オペラとしての内容等は知らない。

 今年のメトロポリタン歌劇場もそうだが、オペラを上演する時に、「新演出」というのは強力な「売り」になるらしい。今シーズン、映画館でライブビューイングを上映する10演目の中で、過半に当たる6つが「新演出」だ。写真を見ると、そのうちの少なくとも4つが、舞台を現代にスライドさせている。私はそのやり方にとても批判的だ(→参考)。解釈は聴衆のものであって、演出家が聴衆に押しつけるべきものではない。演出は抑制的かつであるべきなのだ。今回の「タンホイザー」の演出はオットー・シェンク。私はこの人のことを詳しく知っているわけではないけれど、私が知っている範囲では、非常に常識的で「余計なこと」をしない良心的な演出家である。安心してみていられそうな気がした。

 さて、映像の中で、シェンク演出による「タンホイザー」は、38年目だと言っていた。なるほど、それだけ長期にわたって愛されてきたのが分かる、期待通りのいい意味で平凡な演出だった。昨年、レヴァインという存在の不思議については書いたが、今年はその思いを新たにすると同時に、私の心の中にもレヴァインに対する畏敬の念が生じてきた。今年も、映像の中のインタビューで、何人もの関係者が、「タンホイザーは難曲ですが、レヴァインのような人がいるから出来るんです」とか、「レヴァインですからね」とか語っていた。ご本人のインタビューはなかったが、昨年と同様、車いすに乗り、落ちないようにお腹の前に横棒まで付けられて、何が特別なのか分からないもやもやとした棒を振っていた。だがやはり、彼の下で全てがコントロールされているというのは間違いがないのだ。一度じっくりとリハーサル風景を見てみたいものだ。そんなライブビューイングがあれば面白いのに・・・。

 歌手陣もみんな立派だった。ヨハン・ボータによるタンホイザーはもとより、エリーザベトを歌ったエヴァ=マリア・ヴェストブルックなんて、女性としての美しさも魅力的だった。独唱者だけではなく、合唱もすばらしい。今回は、幕間に合唱指揮者のインタビューがあり、彼が選んだ過去のベスト4だかの映像も紹介されたが、これまた、記録映像を集めて合唱場面だけの3時間番組を作ったとしても、ぜひ見に行きたいものだなと思わせるだけの力があった。インタビューによれば、映像化された「タンホイザー」は昼間の講演だが、前日の夜は「トゥーランドット」で、「タンホイザー」が終わった後、同じ日の夜の公演では「イル・トロヴァトーレ」だ(ったかな?)という。すべて同じメンバーでこなしているのかどうかははっきりしなかったが、指導者も含めて過酷な「労働」である。巨大な舞台装置を、それだけ後から後から用意できるというのも驚きだ。また、ベスト4の映像に出てきた作品は、ドイツ語、イタリア語、ロシア語、それにサンスクリット語(=「サティアグラハ」、こんなオペラがあるんだ!!2008年に初演されたフィリップ・グラスというアメリカ人の作品らしい)で、言葉に対する対応も大変だ。そんな苦労を、微塵も外に見せないところがプロだな、と感心した。

 ところが、残念ながら、「タンホイザー」という作品そのものは、ぜんぜん面白いともすばらしいとも思わなかった。これは脚本(ワーグナー自身の作)の問題だな、と思った。第2幕にこそ動きとドラマがあるものの、第1幕と第3幕は変化が少なく、朗読的、説明的に過ぎる。話の結末も陳腐で不自然だ。

 少し恥ずかしい話、日頃、録音でオペラを聴く時など、何が起こっているかも、どんなことが歌われているかもほとんど意識せずに聞き流し、いいとか悪いとか言っていることが多い。しょせんオペラの筋書きなんて、歌を聴かせるための装置に過ぎない、と思っていたのである。しかし、これだけ優秀な歌手陣を揃え、音楽が美しく奏でられて、演出も適度で、なんらマイナスが見つからないにもかかわらず、全体として面白くないな、と不満を抱きながら帰って来たからには、やはり脚本の持つ力も小さくないということだろう。

 帰りの電車の中では、頭の中で、相変わらずゲルギエフの「悲愴」第4楽章が鳴っていた。