マリア・カラス



 「教育のつどい」に先立つ14日午後、仙台市内の映画館で「マリア・カラス」という映画を見た。20世紀最高の歌姫と言われるマリア・カラス(1923〜1977)が、1958年12月19日、パリのオペラ座で開いたリサイタルの一部始終を収めた記録映画である。生きて歌っているカラスを見たのは、今回が初めて。

 映画は、大統領がオペラ座正面玄関に到着する場面から始まる。古い白黒映画なのに、なぜかぞくぞくするほどの臨場感がある。大統領がロイヤルボックスに入り、国歌「ラ・マルセイエーズ」の演奏が終わると、思わず拍手をしようと手が動きかけたほどである。正装をしたパリ、いやヨーロッパ中の名士たちの華やかな存在感、会場の興奮というものも、不思議と生々しく伝わってくる。シャガールの天井画(→関連記事)が描かれる前のガルニエ宮オペラ座)の様子も興味深く見た。

 さて、マリア・カラス。ソプラノ歌手として20世紀最高という評価は揺るぎないだろうが、残念ながら、私が生まれた頃に引退してしまったため、私自身は、録音で若干その歌声を聞いたことがあるだけである。我が家には、「ザ・ベスト・オブ・マリア・カラス」というCDだけがある。正に「ザ・ベスト」。「いいとこ取り」をしすぎて、いささか編集に節操がないようにも思うが、絶頂期のカラスが超有名アリアばかりを歌っていて飽きさせない。

 今回の映画でも、マリア・カラスの存在感は非常に大きい。前半は、「ノルマ」「イル・トロヴァトーレ」「セビリアの理髪師」からいくつかのアリアを歌う。歌のすばらしさは言うに及ばず、彼女自身の立ち居振る舞いも、自分が女王であることを意識しているような悠然としたものである。後半で演じられた「トスカ」第2幕では、演技も文句なしにすばらしい。しかし、私がカラスについての予備知識を持たずに見たとしたら、本当にこれが世紀の大歌手であると評価できたかというと、それは自信がない。私の審美眼なんてその程度のものだ、ということは自覚している。

 邪道ではあるが、私はカラスという人間そのものに対する興味の方が強い。そもそも、スカラ座を中心に、1940年代後半からイタリアで世界的名声を確立して活躍していたカラスが、なぜ1958年の12月にもなってパリデビューをしたかと言えば、同年1月のローマ歌劇場での大統領臨席の演奏会を、声の不調を理由に途中キャンセルして強い批判を浴び、イタリアでの活動がしにくくなっていたことと関係する。これだけ語り継がれる伝説的な名歌手なのに、本当に活躍していたのは20年に満たない。浮気の話や、ダイエットの異様な方法まで、話のネタの豊かな人である。だが、このような異常さ、わがままさ、奔放さというのは、人間としてひどく魅力的に見えることがある。カラスもそんな人だ。

 何しろ2時間があっという間だったから、映画は十分に面白かったのだろう。終わった瞬間に、もう一度見たいと思った。けれど、それは面白かったから、というだけではない。繰り返し見てみないと真価が分からないという思いが強かった。もちろん、実際の演奏会に繰り返しなんてないわけだから、見るのは1回で満足しなければならない。しかし、ライブと映像とは違う。時間の割に入場料は高額だった(2800円)とは言え、映像だと思うと、繰り返し見られるという思いや、それによる緊張の緩みというものがどうしても生じてしまう。これは、映像と録音に慣れ切ってしまった現代人の堕落だ、と思う。