彼は弱い人なのだ・・・首相の戦後70年談話について



 8月15日の新聞で、かねてより注目されていた戦後70年の総理大臣談話というものを読んだ。冒頭、「百年以上前の世界には、西洋諸国を中心とした国々の広大な植民地が、広がっていました。(中略)日露戦争は、植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました。」と読んできた時には、日本だけが悪いわけではないぞ、戦争だって悪いだけではないんだ、というような意識が見えるような気がして、嫌だな、と思ったが、その後の部分は、予想よりも遙かによくできていた。いろいろな所で言われるほど引用だらけという感じもしないし、あちこちで問題になっている「あの戦争に何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」という部分を致命的な例外として、大切なことをそれなりに理解し、押さえているように思われた。先入観なく読めば、合格点とは行かないが、ギリギリ及第点を与えてもいいような気になったかも知れない。

 だが、先入観なしに読むことは、実際には不可能だ。だから、私が首相に対する評価を向上させた、ということはない。安倍晋三という人の平議員時代からの言動を通して、彼がどのような思想の持ち主であるかはおよそ分かっていて、反省とか謝罪、歴史認識、国防に対する思想が今回の談話とは必ずしも一致していないこと、本心とはおよそ関係のない、損得比較の中で妥協点探しをしながら作り出されたことがよく分かるからである。どうすればアメリカと中国・韓国のご機嫌を損ねず、国内からの批判も最少限で済むか?・・・。外見だけ立派で心のこもっていない、利害打算に満ちた言葉ほど嫌らしいものはない。極めて厳しい立場的制約の中で、おそらくは相当な苦労をして「深い反省」を述べた、首相談話に比べればはるかに短い天皇の「お言葉」が人々の心を打つこととの対比は、どのような言葉が人の心を動かすかということを考えるための格好の事例だ。

 「おしつけ憲法論」にしても、今回の談話にしても、その前提となる侵略を認めることや謝罪についての抵抗感についても、私は、安倍晋三という人は自信がなく、大きなコンプレックスを抱えた人なんだろうな、と思う。日頃の記者会見では、いかにも意気揚々・自信満々な表情で話しているが、自分というものに自信がないから、自分に傷を付けるような何かに怯えるのだろう。もちろん、首相だけではない、それを支える同様の考え方の人がたくさんいる。

 本当に強い人間は、いじめなんか絶対にしない。レイプは性欲の過剰によって行われたりなんかしない。ヘイトスピーチをする人が、本心を語っているとは思えない。弱い人間が、手っ取り早く自分のコンプレックスを解消するために、人をいじめ、女性を襲い、他民族を侮辱するのである。

 侵略をした側の人間は、未来永劫謝り続ければよい。相手に赦しを求めるというよりは、そうすることが、正しい生き方を求め、確認することになるからである。謝ることは、正しい生き方をすることの手段となり得る。それは、恥ずかしいことでも、情けないことでもない。「戦後レジームからの脱却」「未来志向」を言うのであれば、過去をなかったものにするのではなく、侵略戦争の悔恨と反省に立って戦争を放棄し、被害者に謝罪しながら、平和な世界建設のために努力することを、誇りとして生きればいいのである。

 最後に、いつも言うことだが、この心弱く虚栄心の強い首相は、国民の選択の結果として首相という地位にいる。彼が勝手に首相であると宣言して、その地位にいるわけではない。低い投票率小選挙区制というギャンブル的な民意集約といった選挙制度の問題を指摘しても始まらない。私は、今の自民党や首相が、やはり国民の質を反映し得ていると思っている。首相談話に文句を言うと同時に、そのことも深く心に刻まねば。