真意は伝わるか?・・・全国教研のフォーラム



 7月5日に予告したとおり(→こちら)、昨日は「教育のつどい(全国教研)」というのに行っていた。前日15日から、打ち合わせ会議や警備要員としての仕事、全体集会、フォーラム、それらに教え子との飲み会まで加わって、ドタバタの2日間だった。

 さて、肝心のフォーラム。仙台サンプラザホテルの、驚くほど立派な部屋に集まったのは100名ほど。予告通り、私は聞いている人々がどう思うかを意識することなく、自分が見たまま思ったままのことを話した。シンポジストの3名というのは、キャリア教育を専門とするNPOの代表、大学の経営学の先生、そして私だったが、もともとこの3人ならこのように話がかみ合うだろう、ということを考えて選ばれたわけでもないので、私だけでなく、それぞれが勝手なことを話していた、という感じだった。無理を承知で、2時間半の間の私の発言を大雑把にまとめて、ごくごく簡略に書くと、次のようになる。

「学校における最大の問題は管理統制の強化と、それに伴う多忙化だ。それは震災の前も後も変わらない。それがガンだとすれば、震災なんてかすり傷か骨折程度のものである。石巻の抱える問題は、原因がたくさん考えられて、震災にばかり原因を求めることはできない。震災という例外的な事故に振り回されることなく、基本的知識と批判的な思考力を身に付けさせるという主権者教育を、地道に進めていくことが大切だ。」

 会場からはさほど批判的な意見は寄せられず、そうなのかぁ、みたいな顔をし、好意的な発言をしてくれる人が多かった。批判的だったのは宮城県の小学校の教員で、「平居の発言とは違い、見た目は楽しそうにしていても、子供たちは深刻な傷を心に負っているのだ」というような発言が2名からあった。会の冒頭で私は、「被災した場所によっても年齢によっても事情は違っていて、私が述べるのは、あくまでも私の身近で見た高校生の話だ」と断っておいたので、それはそれ、これはこれ、で聞いておいてもらうしかないと思った。

 なにしろ全国大会である。いろいろな新聞社の記者が会場にいた。「写真使っていいですか?」とか、「名前出していいですか?」とか言われたので、特にやましいこともないから、気軽に「いいですよ」と返事をしていたのだが、会が終わってしばらくしてから、本当に大丈夫かな?という気が兆してきた。「大丈夫かな?」というのは写真や名前についてというよりは、記事になるときの内容の問題である。つまり、自分の意図が正しく伝わる記事を書いて、写真や名前が公にされているのはかまわないが、自分にとって不本意なまとめ方がされた上で、写真や名前が出るのは不都合だという思いである。

 新聞記事というのは、記者という人間が書く以上、その人の解釈や問題意識によって内容が整理される。読者は読者で、その記事を自分の関心に沿う形で解釈し、理解する。たとえ悪意がなかったとしても、それらが私の思いと一致しないことは往々にして起こるだろう。例えば、前後の文脈から切り離されて、「震災はかすり傷か骨折程度のもの」という言葉が引用されたらどうなるか?私はそれを恐ろしいことだと思った。

 フォーラムに先立ち、サンプラザの大ホールで開会集会が行われた。今年の記念講演は、ジャーナリストの金平茂紀氏である。その話の中に、1972年6月17日に行われた佐藤栄作首相の退陣記者会見の話があって、その時の映像が滅法面白かった。こんな一部始終が映っている。

 佐藤栄作は、新聞は偏向しているから嫌いだ、テレビカメラをもっと中央に持って来い、自分はテレビを通して国民に直接話がしたいのだ、と言い、人々がそれに応じないのを見ると、記者会見をせずに退席してしまった。側近に説得されたらしく、しばらくすると記者会見場に戻ってきたのだが、その時、新聞記者から先ほどの発言についての質問と批判が出たところ、同様の発言をし、今度は、怒った新聞記者が一斉に退席してしまう。

 金平氏は、この映像を、昔の新聞記者は気骨があった、権力とメディアの関係はこうあるべきだ、というような文脈の中で使っていて、私も、なるほどなぁ、佐藤栄作も情けない、などと思いながら見ていたのだが、フォーラムが終わって思い出したのはこの映像であった。新聞記者は自分の意図を正しく伝えてくれるとは限らない、と不安を感じた時、佐藤栄作のいらだちがひどく共感できるものに思われてきたのである。

 もちろん、私がこんな雑文で誰かの言動に言及する時も同じ問題が発生する。いや、文章を書く時に限らず、あらゆるコミュニケーションの場で問題となるだろう。批判すること、批判されることはかまわない。だが、その前提となる話の内容(話者の真意)については絶対に正確(=意図通り)でなくては困る。しかし、それは途方もなく難しいことだ。

 ともかく、今更、新聞記事の心配をしても仕方がないので、それについては運を天に任せ、自分が人について語る時の戒めとして確認しておこう。