おめでとう朝市保育園!そして今日の朝日の記事



 私もびっくり、朝市センター保育園のReadyforによる寄付金集めが、今日、目標の710万円を達成した。先週ここで紹介した時には「なかなか厳しいな」と思っていた。寄付金の伸びは1日10万円くらいだったのではなかったかと思う。ところが、この3〜4日、あれよあれよという間に100万円以上の寄付があり、期限を11日残して「目標達成」となった。驚きである。実にめでたい。これで自動的に認可が得られることになるのかどうかは知らないが、少なくとも相当程度「認可」に近づいたことは間違いないだろう。また、この運動を通して、多くの人々が保育行政の問題や朝市センター保育園の活動に目を見開いたことにも値打ちがあったな、と思う。おそらく、私の貢献度は限りなくゼロに近いが、それでも、もしもこのブログの記事を見たり私の話を聞いてカンパをしたり、情報の拡散に努めてくれた方などがいれば、私からも感謝します。

 違う話。

 今朝の朝日新聞宮城県内版に私が登場した。10月31日に石巻市内で取材に応じた時の話が記事になったものである。最後の一文以外、ほとんど記者のコメントを差し挟むことなく、私の言葉(このブログの記事や8月の全国教研での私の発言(→この時のこと)も含めて)が拾ってある。雑感とも言うべき記事で、見出しは「『被災地』という言葉考えたい いつまで どこまで」というものだ。非常に限られたスペースの割には、うまく言葉を拾い、繋げたものだなと思う。ただ、やはり他人の仕事だし、スペースの制約も大きいので、私が読むと少し補足しておきたくなる。宮城県内版を読めない人への紹介も兼ねることになるだろう。


 まずは引用発言の一つ目。

「すべての問題を震災、被災地(であること)のせいにしていないか」

 ( )は私による補足である。これだけ読むと、被災地以外の場所で、何かの責任を被災地になすりつけているようだから・・・と言うのは「言いがかり」に近いかな?

 次に二つ目。

「教師の多忙化、生徒の荒れ、不登校といった問題は前から深刻。震災にばかり原因を求めず、教育を地道に進めることが大切だ。」

 これは8月の全国教研での発言だが、おそらく、私は冒頭で、「学校における最大の問題は、政府による教育の管理統制だ。それは震災の前後を問わず一貫している」と言ったと思う。「教師の多忙化」は、そこから生まれた問題の一つに過ぎない。地道に進めるべき教育がどのようなものか、ということも語った。それは、文字の読み書き能力をきちんと身に付けさせること、それによって歴史を学び、批判的に考え、表現するトレーニングをさせること、である。 

 三つ目。

「一人一人事情は違う。被災地とひとくくりにするのはおかしい。」

 これは、取材を受けた時の発言だが、後ろには、「ひとくくりにして復興を言うから、巨大土木工事ばかりが増えるんです」と続く。

 四つ目。

「被災者は可哀想で、頑張っていて、けなげだという文脈以外で話すことは期待されていない。聞いた人は『私が元気をもらいました』と言って、上がりとなる。」

 言いたいことは分かるし、確かに私の主張だが、日本語が不可解だ。「聞いた人は」という言葉があることからして、「可哀想で、頑張っていて、けなげだという文脈」で「話す」のは被災者自身だろうが、「可哀想」とか「けなげ」は第三者の評価なので、被災者がそういう「文脈」(?)で話すというのは、主語の変化が激しくて分かりにくい。記事の言葉を出来るだけ尊重するなら、「被災者は可哀想で、頑張っていて、けなげだという印象を与える内容以外を話すことは期待されていない」だろう。あるいは、「被災者は可哀想で、頑張っていて、けなげな存在であることだけが期待されている」、そして「接した人は」と続くべき。


 これらの発言に関連した記事は、このブログの「震災」というカテゴリー(上の「記事一覧」という所から入れる)の中に見つけることが出来る。興味のある人は見てみて欲しい。ただし、おそらくは、物事を斜めにしか見ることの出来ない可哀想な人の姿が見えてくるばかりだ。腹が立った方は、憤るよりも、むしろ憐れむに限る。