再び「被災地の高校生」



 日本を代表する全国紙から、学校に取材の依頼があった。いや、正しくは、生徒を取材したいので紹介して欲しい、という依頼だった。ご丁寧に、どのような生徒を取材したいかという「条件」が付いている。次のようなものだ。

・被災していること。

・地元に就職または進学が決まっていること。

・復興のために尽くそうとしていること(海関係の就職であればなおよい)。

・ユニークな生徒、というのでもよい。

 「平居先生のクラスにこんな生徒いませんか?」と聞かれたので、あまり考えもせずに「いないよ」と答えた。私は、聞いた瞬間に、「たくさんだ」と思ったのだ。

 上のような条件で生徒を探し、取材した結果、どのような記事が出来上がるかは、最初から分かっている。書きたい記事の骨組みは最初から決まっていて、それの裏を取り、多少のふくらみを付けるために取材らしきことをするのだ。これは、被災地取材の典型である。私も日頃から愛読する全国紙が、この期に及んで、まだこんな取材をするのか、と腹が立った。

 私が見たところ、被災地の高校生は、震災の前も後も、まったくただの高校生なのだ。震災で心に傷を負った、などという例が見当たらない代わりに、逆境の中でたくましく成長したとか、人々に支えられ、人々と助け合う中で、謙虚で人間愛に満ちた生徒が育った、などということもない。全国のどこでも、それなりに大変な境遇の生徒はいるだろうし、地元の発展のために尽くしたい、世のため人のため、と考える高校生はいるだろう。それが、なぜか、被災地の高校生については、「被災→復興」ということと結び付けられて、逆境の中で健気に頑張る高校生として特別視され、美化されるのだ。

 これはもちろん、マスコミにそのような報道を期待する読者の心理を反映しているだろう。だが、その期待とは、いったい何なのだろう?同時に、そのような記事を読んで、それが被災地の一般的な事実であるかのように全国の読者が考えるとすれば、被災地について考える前提も歪んだものになってしまう。たかだか2〜3人の高校生の生き方、というのならまだよい。だが、被災地に関するそれ以外の記事も、自ずから何かの意図や方向性を含んでいる可能性が大きいわけで、それに基づいて被災地を考え、復興計画その他について発言をするというのは困ったものだな、と思う。そして、更に言えば、これはあらゆる「報道」について言えることに違いない。

 幸いにして、ちやほやされがちな「被災地の高校生」は、それによって自分の価値を誤解したり、人におもねる術を身に付けたりはしていない。特別扱いされることを、時には上手く利用し、時にはそれを楽しんでいる。マスコミや支援者の要求と、高校生の要求(?)が、ある意味でバランスよく釣り合っているわけだから、文句を言う必要もないのかも知れない。だが、なんだか釈然としない私であった。


(参考)

2013年1月28日記事「被災地の高校生

2011年10月31日記事「悲劇と英雄を求める心