命の価値と生きる意味



 昨日、このブログを更新した後、何か書き忘れがあるようなもやもやした気分に陥った。今朝になって、その書き忘れを思い出したので、書いておこう。

 夏休み中、卒業生を始めとして多くの人と会う機会があったが、何回か、「生きることの意味」 ということが話題になった。人は何のために生きるのか、人生にどのような意味を見出していくか、というような話である。私は、この問題の中に、昨日書いた「自然から離れた人間」が象徴されているように思う。

 全ての生物は命を繋ぐためだけに生きている。日々、食糧の確保にあくせくするのも、配偶者を得るためにいろいろな技を考え出すのも、全ては子孫を残すという目的のために必要だからである。命は100%、命の継承のためにのみ存在し、用いられる。そこに、「なぜ生きるのか」という疑問が入り込んでくる余地はない。

 ことは「生きることの意味」に止まらない。命そのものに絶対的な価値があることは、人間以外の動物にとって自明である。だが、命の価値そのものが現代人には悩みの対象となる。震災など多くの死者が出る事故があった後、いじめなど社会的問題による自殺者が出た後、「命」の大切さを考えよう、訴えようといった呼び掛けがよく見られるが、そんな悩みは元々存在しない。

 人間が、何のために生きるのかと考え、命の価値を忘れるのは、子孫を残すために生きる時間に余剰が生じたからである。なぜ余剰が生じたかと言えば、人間の努力によって技術革新が行われたからであるが、その大部分は、農業の大規模経営や高泌乳牛(高カロリーの輸入飼料の供給)によく表れているとおり、石油を燃やすということの上に成り立っている。

 つまり、石油を燃やして、人間が人間以上の力を手に入れ、少人数で食糧生産が可能になり、命の前提である食糧確保にほとんど時間を費やす必要の無い人が増え、余った時間で何をするかを考えた時に、人間の生活を「豊か」にするための新しい仕事を考え出すと同時に、存在の価値や意味に悩むようになったというわけだ。悪く言えば、人間は石油の力を借りて、無駄に暇で豊かだから、そんなことに悩むしかなくなるのである。まして、そんなことに悩みながら、にっちもさっちもいかなくなって子孫を残すことが疎かになるなど、本末転倒・倒錯以外の何物でもない。

 私も、自分の時間の使い方についてはよく考える。どのような生き方をすることがよいのか、ということについても悩む。だが、一方で、それは、人間という「高等」生物の特権であるよりも、むしろ「豊かさ」の上に成り立つ一種の贅沢な暇つぶしに過ぎない、と常に意識している。そして、その意識は、自分が一人の人間として思い上がらないためにも、悩みに自分が押しつぶされないためにも大切だと思っている。自分は本来、生物の一種であり、自然の一部分でしかない。