自然から離れる人間



 暑さも少し落ち着いてきた。その暑い最中、我が家ではウグイスの鳴き声がよく聞こえていた。いつも、こんな暑い時期にウグイスって鳴くかなぁ?しかも、今年は「谷渡り(ケキョケキョケキョケキョ・・・)」にならないぞ、などと家族でブツブツ言いながら、蝉の声越しにウグイスを聴いていた。先週末から多少気温が下がったのに伴って、ウグイスの鳴き声も聞こえなくなった。???

 今日のびっくりは、朝からドローン。食事をしながら、妻が、「あれって鳥かなぁ?」と言う。確かに、空に黒いものが浮かんでいるが、鳥のわけがない。静止しているのだから。と思った瞬間、すーっと左側に動いた。子どもが叫ぶ。「あれってドローンじゃない?」!!!あわてて双眼鏡で見てみると、確かにそうだ。この2〜3ヶ月、話題になることも多かったドロ−ンだが、我が家ではみんな初めて見た。おそらく、「復旧」工事の続く門脇町、南浜町の写真でも撮っていたのだろうが、あんなのが我が家に近付いて来て、のぞき込むように写真でも撮るようなことがあれば、気味の悪いことだな、と思った。

 さて、先週の金曜日、河北新報の「持論時論」という大きめの投書欄に、岩手県の酪農家・中洞正氏による「高泌乳牛で大量生産〜酪農危機を招いた失政」という記事が出た。これはなかなか新鮮な衝撃を感じる記事だった。

 日本の乳牛の乳量は昭和40年代には約4000キロ/頭/年だったのが、50年後の現在は10000キロ/頭/年に近付いている。それは、品種改良と濃厚飼料(主にアメリカ産の輸入穀物)によって実現した。命を持つ生き物である牛を、まるで工業製品のように扱うことと、日本にふんだんにある草を放置して輸入飼料に頼ることが理不尽である上、牛乳の供給過剰とえさ代の高騰とによって、酪農危機が発生している。これは、国と農協との責任である。・・・というような内容だ。

 こんな問題、今まで耳にしたことさえなかった。由々しき問題だと思う。中洞さんは、酪農家が廃業に追い込まれるのは、酪農家の責任ではないということを訴えたいらしいが、私はそんなこと(←ごめんなさい)よりも、最近、「復旧」工事を始めとするあらゆる場所で共通するある問題が気がかりだ。それは、「自然」を何とも思っていないということである。人間が非常に傲慢になって、自然を力尽くで変えることにも、自然に反することをすることにも、まったく問題を感じていないということである。

 古来、日本人は自然と共存する生き方をしてきたはずだ。自然を人間の力でねじ伏せようとするのは、むしろ欧米のやり方だったように思う。ところが、今はそうではない。被災地の大規模なかさ上げ工事や造成工事にしても、辺野古沖に滑走路を作ることにしても、力尽くで自然をねじ伏せる、という発想が露骨に見える。

 今年の3月8日に、「復興祈念公園の市民フォーラム」というのに出た(→その時の記事)。その時の説明の中で、昭和20年代まで見られた南浜町の地形的特性と、復興祈念公園のプランが、まったく一致していない、つまり、元々の地形を生かすということは一切考えられておらず、元々の地形に関係なく、やりたいようにやる、という発想があることに愕然とした。例えば、昔田んぼだったところは地形的に低いから田んぼになったはずなのに、そこに人工の山を築いて、7mの防潮堤越しに海を眺められるようにする、といった具合だ。

 人間が自然をねじ伏せることができる(と誤解してしまう)のは、全て石油を燃やすことによっている。石油によって力を獲得したことで、自分たちの力が自然を上回り、自然を自分たちが支配できると考えることを、私は本当に恐ろしいと思う。自然の力はそんなに小さくないし、本当の力関係は、今すぐ目に見えなくても、やがて途方もない形で明らかになる。そんな文脈の中で、乳牛の話も実によく理解できる。

 資源の浪費についても、自然の破壊についても、私は並々ならぬ問題意識を持っているつもりなので、人間が自然によって滅ぼされる時、巻き添えを食うのは嫌だなぁ、と思う。だが、そんな愚かな人間の行為の恩恵を、全て拒否することもできず、ほどほどに拒否してささやかな自己満足を感じながら、ほどほどに享受して安穏たる生活をしているわけだから、仕方が無いのかなぁ、とも思う。ともかく、中洞さんの記事を読んで、今まで知らなかった社会問題を知るとともに、共感したのであった。