ヒバリは鳴いているが、ウグイスはまだ鳴かない

 一昨日、すなわち震災から満5年を迎えた3月11日、黙祷のサイレンが鳴らなかったということを書いた。多くの人が長く黙祷していたので、サイレンが聞こえていないのは私だけかな(笑)、と思っていたところ、翌日の新聞に記事が出た。ご丁寧に、今日も「石巻かほく」なる超ローカル紙でそのことが問題になっていた。なぜ鳴らなかったのか、というのはともかく、サイレンが鳴らなかったことで、市には約100件の電話がかかったという。一応、記事にはその電話について「照会」と書いてある。「苦情」とは書いていない。おそらく、「サイレンが聞こえないのは私だけだろうか?」という「照会(問い合わせ)」に違いない(笑)。私は市役所に電話を掛けるなんて思いもよらなかった。暇な人がたくさんいるのだな。
 後から思ったのだが、南浜に集まってきた数百人(石巻に集まってきた数千人?三陸沿岸に集まってきた数万人?)というのは、いったいどういう人たちなのだろう?地元の、以前そこに住んでいた人たちなのか?被災地支援の人たちなのか?観光客、野次馬なのか?
 私が勤務する水産高校では、職員はごく普通に勤務していた。「今日は3・11だ!」などという雰囲気は微塵もなかった。現在の同僚で最も深刻な被害を受けたのは、お父さんを亡くしたA先生だが、私が「先生、今日、学校にいていいの?法事とかあるんじゃないの?」と尋ねると、思いがけないことを聞かれた、というような顔をして、「なにもしないよ。妻がお墓くらい行った方がいいかな、とか言ってたけど・・・」という返事が返ってきた。子供を亡くした人は本当に苦しんでいるが、親を亡くした人で悲嘆に暮れている人は、テレビの中でしか見たことがない。これは私がその人の立場だったら・・・と想像してみる時の実感とイコールだ。
 話は変わる。
 今日は映画の撮影だった。以前、門脇小学校の記録映画を撮影した青池憲司さんという監督から、「平居さん、こんど南浜の道案内してくださいよ」と言われて引き受けたのが、先月17日(東北学院大学に行った日)。今月に入ってからメールが来て、「道案内」はいつの間にか「撮影」に変わっていた。私が監督と南浜を一緒に歩きながら、インタヴューに答えるシーンを撮るらしい。
 9:20から約2時間。途中、カメラが回っていた時間だけで1時間を超えるのではないだろうか?復興祈念公園になる南浜地区の歴史や自然のこと、「復旧・復興」のあり方の問題、教訓や「歴史を学ぶ」ということについてどう考えるか等々・・・日頃私が、このブログでも各種の集会でも繰り返しているような「いじけた目線」による私見を、カメラが回っていることをほとんど気にすることもなく、あれこれとお話しした。いつ、どんな映画になるのか、私は知らない。
 通勤時、南浜を自転車で駆け抜ける時には気付いていなかったが、冬の間は途絶えていたヒバリの鳴き声がよく聞こえるようになっていた。
 そういえば、今年の冬はいつになく暖かかったのに、我が家のウグイスはまだ鳴かない。今日、撮影の時に初めて通ったのだが、我が家のそばに、南浜方面から上ってくる新しい避難路が完成間近になっている。今までも、上ってくる階段はあって、新しい避難路の上り口は、古い階段と100メートルくらいしか離れていない。しかも、古い階段よりも急な階段だ。なぜそんな階段が必要なのか、例によって私は理解できない。しかし、その階段を作るために、我が家の1軒西側の家の前の斜面は、コンクリートで固められて無残に姿を変えた。階段を下りたところは、住む人がいるのかどうかも分からない門脇のかさ上げ工事だ。今年ウグイスが鳴かないのが、それらの工事と関係しないのかどうか・・・?にわかに心配になってきた。