仙台フィルとその後の地震

 昨夜の地震は大きかった。しかも、何の前触れもなく突然揺れ始めた。長い地震だった。地盤強固な日和山に建つ我が家は、東日本大震災の時でも、被害がほぼゼロ(本が数冊落下、外壁に髪の毛ほどのひび2本)だったので、あまり心配はしなかったが、それなりに激しい揺れだったし、激しく揺れている時でもそれがMAXという保証はないから、ひどく不安な気持ちになった。結局、停電もせず、CDラックに座らせてあったバリ島の猫が1匹、棚の上に寝かせてあったリップクリームと荷物受け取り用のハンコが落ちただけで済んだ(猫は片耳が欠けた)。間違いなく津波が来るぞ、と思ったが、それがなかったのはご存知の通り。
 地震発生から40分後、日付が変わる頃に、市内に一人暮らしをする教え子が訪ねてきた。「恩師の安否を心配して」ではなく(笑)、「不安になったから」だそうだ(笑笑)。20歳そこそこの女性ではなく、30歳になったおっさんである。滑稽な地震のオチであった。
 毎週日曜日は、朝9時から、1週間分の食糧買い出しに出かける。道中、地震の被害らしきものは一切なく、お店もごく普通に営業していた。その後走りに行った牧山も同様。地震の被害はテレビの中だけの世界だ。
 さて、昨日の続き。
 仙台フィル第343回定期は大御所・飯守泰次郎氏の指揮、武満徹「弦楽のためのレクイエム」、ベートーヴェン交響曲第1番、チャイコフスキー交響曲第6番「悲愴」というスタンダードナンバー。通常の演奏会場である青年文化センターが改修工事中ということで、1.5倍の収容力があるイズミティを使い、2公演を1公演に減らして開催しているのだが、気の毒なことに、客の入りはせいぜい7割といったところ。通常は、スタンダードナンバーだと客が入るのに、である。なぜかは知らない。
 飯守氏は、仙台フィルの常任指揮者で、音楽監督を置いていない現在では最高位に在る。ところが、私は、2018年6月の第319回以来、ほとんど3年ぶりである。理由がないわけではない。コロナ騒ぎで、楽しみにしていた昨年9月の「ミサ・ソレムニス」が曲目変更になってしまったので行かなかったといったこともあったが、その素晴らしい経歴にもかかわらず、積極的に行きたいと思うほどの好印象がないからである。最近では、昨年11月頃にNHKがベートーヴェン生誕250年記念で企画した、全国9つのオーケストラによるベートーヴェン交響曲全曲演奏会で、飯守+仙台フィルは、第2番を分担していたが、テレビで見て、残念ながら一番覇気に欠けていたのがその演奏であった。
 久しぶりで見て、その衰えに驚いた。歩くのもヨタヨタで、指揮台に椅子が用意され、3分の1くらいは座って指揮する。
 しかし、今回は何しろ名曲ぞろい。「弦楽のためのレクイエム」は、武満作品の中でほとんど唯一、私が「いいなぁ」と思って聴ける作品である。ベートーヴェン交響曲第1番は、私の大好きな「ベートーヴェンハ長調」(→参考記事)。素直で素朴な若々しさにあふれた名曲だ。「悲愴」は、さすが大作曲家の最晩年の作品(遺作)というだけあって、噛めば噛むほど味の出てくる奥深い作品だと思う。私が生まれて初めてオーケストラの演奏会に足を運んだ時(1978年、山田一雄京都市交響楽団)のプログラムであり、その後、何度となく聴く機会があった。中でも、5年ほど前に、ゲルギエフミュンヘンフィルで聴いた「悲愴」は強烈な思い出だ(→その時の記事)。思い出の中の名演奏と比べながら聴くのは興醒めだが、なにしろ強音(ffff)と弱音(pppppp)の音量の差があまりにも大きく、録音で聴くのに適さない曲の代表格なので、久しぶりのライブは楽しみだった。
 そんな作品の魅力をよく感じることができた。特に前半、武満徹ベートーヴェンは、老大家の演奏という感じではなかったけれども、まずまずの演奏だったと思う。「悲愴」は、私自身のイメージと比べて音のバランスが悪いなぁ、と思いながら聴いていたけれども、要の第4楽章がそこそこの出来だったこともあって、久しぶりでこの曲を聴いた充実感に浸ることはできた。
 帰りは地下鉄。