究極の!!幻想交響曲

 昨日は、仙台フィル第353回定期演奏会に行った。指揮は高関健で、曲目は矢代秋雄のピアノ協奏曲(独奏:河村尚子)とベルリオーズ幻想交響曲。出演者と言い、曲目と言い、これ以上はない面白い演奏会である。今年度、仙台フィルの演奏会に1回だけ行くとしてもこれだな、というくらいの気持ちで、早くからチケットを買ってあった。ちなみに、高関健による幻想交響曲を聴くのは、2003年10月桐朋学園オーケストラの演奏会以来、18年半ぶりである。
 矢代秋雄のピアノ協奏曲は、以前、何かの機会にテレビか何かで見たことがあって、面白い曲だなという印象を受けた憶えがあるのだが、昨日は、まったく構造も価値も理解できなかった。プレトークでも、指揮者とピアニストが語っていた通り、とても難しい曲だということはよく分かり、それ故に、サーカスを見るような面白さはあったのだが、残念ながら、曲が私の理解力を超えていたということだろう。
 アンコールに、シューベルト即興曲(作品142の方)第2番変イ長調が演奏された。これは、文句なしに素晴らしかった。いつも、録音で即興曲を聴く時には、作品90の4曲と作品142の4曲を通しで聴いてしまうので、1曲1曲が8分の1の存在になってしまい、小さな曲として感じられていた。こうして1曲だけを取り出して演奏するのを聴くと、なかなか立派な独立した曲だという印象を受ける。演奏時間8分もそれなりの長さだし、なにより曲想が崇高で格調高い。
 さて、後半の幻想交響曲は、何度聴いても面白い曲である。この場合の「面白い」は、エンターテインメントとしての面白さである。ベートーヴェンブルックナー交響曲を聴く時とは、気分がまるで違う。それにしても、よく言われることで、この日のプログラムにも書かれていたが、ベートーヴェンが死んでわずか3年後に、これほど創意工夫に満ちた斬新な交響曲が書かれたということには、いくら驚いても驚き足りないくらいである。正にエンターテインメントであり、ベルリオーズワールド!!
 プレトークで、高関氏はまず、小澤征爾ミュンシュブーレーズの演奏を両極に置き、自分はブーレーズの演奏に共感すると述べた。ブーレーズの演奏とは、「楽譜に忠実に」ということだ。そこで、氏は、楽譜に指定されたテンポをしっかり守るということ、楽器の配置もベルリオーズの指示に従うこと、を基本方針にすると言う。例えば、弦楽器は、客席から見て左から第1ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、第2ヴァイオリンの順、バスドラムは縦ではなく横(水平)に置く、などである。
 え?そんなことベルリオーズは指定していたっけか?と驚いて、帰宅後、我が家にある楽譜(音楽之友社から出ているミニチュアスコア)を見てみると、確かにバスドラムは横置きしろと書いてある。ただし、高関氏が「その方が大きな音が出るから、ということらしい」と言う理由の部分は見付けられなかった。弦楽器の配置も書かれていない(何か私の知らない他の史料があるのだろう。ちなみに、下で触れるノリントンの録音では、解説書の最終頁に、ノリントンが採用した楽器配置図が印刷されているが、昨日の高関氏の配置ともかなり違っている)。
 一方で、楽譜にはハープに関して、「ハープ1、ハープ2各2台以上」つまり4台以上用意しろと書いてあるが、昨日は2台であった。舞台裏で鳴らされる鐘も、ベルリオーズは低い音のものを求めているが、昨日は甲高いチューブラー・ベルであった。楽譜の解説によれば、当時ベルリオーズが使ったハープは、今のものより小さくクリアーな音がしたらしい。楽譜でオフィクレイドが演奏することになっている部分は、昨日もチューバによって演奏された。
 配置で驚いたのは、舞台の中央、指揮台より客席側に2台のハープを半ば向かい合うように置いたことである(これはノリントンと同じ)。演奏者は、第1楽章が終わったらステージに登場し、第2楽章が終わると楽器共々舞台裏に下がる。このハープの配置についても、私はベルリオーズの指示を見付けられていない。プレトークで高関氏も言及しなかったので、この演出が誰の発案なのかは分からない。
 ハープは経済的な事情で4台にできなかったのかも知れないし、当時と楽器の性質が違うことを考慮し、2台にした方がいいという判断があったのかも知れない。オフィクレイドは現在まったく一般的な楽器ではないので、チューバによる代用は仕方がないと思う。いずれにせよ、当時と今とは楽器の性質・種類が違うのだから、「楽譜通り」は基本的に中途半端になるのが当たり前。この中途半端を徹底的に排除し、正真正銘の「楽譜通り」を実現させようとしたのが、ロジャー・ノリントン+ロンドン・クラシカル・プレイヤーズ(→この曲の「鐘」についての考察で重要な役割を果たしている。ただし、今思えば、この考察は決していいものではない)や、フランソワ=クザヴィエ・ロト+レ・シエクルによる演奏である(→後者の演奏した「春の祭典」について)。
 ところが、その徹底的に「楽譜通り」、しかも、初演時の演奏を楽器も含めて再現することにこだわったノリントンやロトの演奏が、特別に感動的かというとそんなことはない。録音ということもあるが、私のような音楽的凡人には、ほとんど特別な演奏には聞こえないのである。やはり大切なのは、音楽の本質をどう把握するかということと、演奏者が指揮者と心を一つにして演奏に集中している、ということだろう。
 昨日の演奏は、超高密度な名演であった。オーケストラの隅々にまで指揮者の神経が行き届いているような感じがした。幻想交響曲の面白さここに極まれり。これに尽きる。それは絶対に「楽譜通り」の成果ではなく、高関氏の楽譜の裏を見通すような直感、もしくは眼力、更には楽員をその気にさせる統率力のせいである。