情報は発信者の価値観を表す

 このブログに書いている私の記事も含めて、あらゆる情報は、その情報を発信した人の価値観を表す。「全てを書く」ことが絶対に不可能である以上、どの情報を残してどの情報を捨てるかという判断がなされた結果として、整理された情報(主に文章)は存在するからである。単に取捨選択するというだけではなく、時には歪曲、潤色も行われる。情報とはそういうものであると覚悟しなければならない。
 さて、一昨日の仙台フィルの続きである。
 会場で配られたプログラムに目を通して、私が気になったのは指揮者・高関健氏の経歴であった。高関氏は仙台フィルのレジデント・コンダクター(←どういう地位なのかよく分からない。直訳すれば、常任指揮者とか専属指揮者となるはずなのに、そのような呼称をわざわざ避けて横文字にしたことには何かの意味がありそうだが、説明に接したことがない。これも情報に表れた価値観の一つ?)という地位にあり、私も非常に高く評価している指揮者なので、今までも年に1度くらいは演奏に接する機会があった。しかし、今回のプログラムには、「あれっ?」と思わせる明瞭な変化があった。私が足を運んだ高関健指揮の前回、第322回定期のプログラムと今回を比較してみよう。

 

「国内はもちろん海外への客演も多く、2013年のサンクトペテルブルグ・フィル定期演奏会では聴衆や楽員から大絶賛を受け、2017年に再び共演。オペラでも新国立劇場『夕鶴』、大阪カレッジオペラ『ピーター・グライムズ』などで好評を博し、P・ブーレーズ、M・マイスキー、I・パールマン、M・アルゲリッチなどの世界的作曲家やソリストからも絶大な信頼を得る。」(2018年10月19日、仙台フィル第322回定期)

 

マイスキーパールマンブーレーズ等の世界的ソリストや作曲家、特にアルゲリッチからは3回の共演を通じてその演奏を賞賛されるなど絶大な信頼を得、ロシアの名門オーケストラから豊潤な響きを引き出し、聴衆や楽員から大絶賛を受けたサンクトペテルブルグ・フィル定期演奏会など海外への客演も多い、緻密なスコアの分析からスケールの大きな音楽を作り出す、まさに“名匠”と呼ぶにふさわしい知性派指揮者。新国立劇場『夕鶴』、大阪カレッジオペラ「ピーター・グライムズ」などオペラでも好評を博し、2019年にはウラジオストクサンクトペテルブルグで『ロシアにおける日本年』の一環として團伊玖磨の『夕鶴』を指揮して日本とロシアの文化交流に大きな役割を果たし、2021年4月は新国立劇場公演、ストラヴィンスキー『夜鳴きうぐいす』とチャイコフスキー『イオランタ』を指揮、ロシア・オペラの魅力を存分に伝えて高評価を得た。」 (2022年3月19日、仙台フィル第353回定期)

 

 どちらもこの後、職歴が事務的に続く。プログラムにおける出演者の経歴というのは、その人をとても立派な音楽家に見せて、来場者の期待を高めるというのが大切な役割だ。高関健の経歴といえば、1979年春から6年半にわたってカラヤンのアシスタントをしていたことが非常に重要だと思うのだが、意外にもそのことには全然触れていない。そして、今回のはっきりした特徴は、ロシアとの関係が強調されていることである。
 所属事務所(ジャパン・アーツ)のHPには、経歴の例文が三つ掲げられているのだが、サンクトペテルブルグ・フィル定期演奏会での成功や、ストラヴィンスキーチャイコフスキーのオペラ作品の指揮に加え、「夕鶴」の紹介で「日本とロシアの文化交流に大きな役割を果たし」などと書かれてはいるものの、いずれの例文にも「ロシア・オペラの魅力を存分に伝えて高評価を得た」という文言はない。私が見つけ得る限りで、今回の仙台フィル定期のプログラムは、最もロシアとの関係を強調する書き方になっているのだ。
 なにしろ、ロシアのウクライナ侵攻は目下世界の関心事である。このタイミングで、これほどロシアとの関係を強調するのはなぜか?どうしても勘ぐりたくなるのが人情というものである。高関氏が今回の戦争に関してどのような態度を取っているのかは、ネットで検索しても見付けられなかった。ロシア音楽に対する造詣が深く、大きな実績を持つことが、高関氏のロシアに対する政治的立場を、「親」とも「反」とも示すものではない。そもそも、この経歴記述の変化は誰の意思によるのか?いちばん大切なのはそこかも知れない。
 なにしろ、情報はその情報を発信した人の価値観を表す、のである。