「幻想交響曲」の鐘(2)



 我が家には、今回のノリントンを含めて、「幻想交響曲」のCDが5枚ある。とても「多い」とは言えない。それでも、鐘の聞き比べをしてみた。

1 ミュンシュボストン交響楽団 1962年・・・テューブラー・ベル(「のど自慢」で合格の鐘に使われるやつ)を使った明るく甲高い鐘。単音だが、大きくてひどく華やか。明らかに舞台の表(2回目だけ裏か?)。

2 バレンボイムベルリンフィル 1985年・・・にじんだ太くて低い音がゴォ〜ンと響く。鐘はひとつ。舞台裏

3 インバル+フランクフルト放送響 1987年・・・ミュンシュと同様の甲高いテューブラー・ベルの単音だが、使い方は控えめ。おそらく舞台裏。

4 ノリントン+ザ・ロンドン・クラシカル・プレイヤーズ 1988年

5 チョン・ミュンフン+パリ・バスティーユ管弦楽団 1993年・・・高めの音だが、少しくぐもっていてにじみもある。鐘は多分ひとつ。舞台裏

 事例が少ないので何とも言えないが、私が「幻想の鐘かくあるべし」と思っていたようなテューブラー・ベルの甲高い音が、圧倒的多数ということはないようだ。ただ、楽譜にはオクターブ間隔で3つの鐘を重ねて、しかも舞台裏で鳴らすよう指定してあるのに対し、単音で、しかも舞台表で鐘を鳴らすというのはいかがなものだろう?

 ノリントンの鐘の使い方は、ベルリオーズの指示に最も忠実に思える。間違いなく複数の鐘が、低音で、長く尾を引いて鳴らされる。しかも、それらの鐘の音は微妙にずれていて、不協和なひずんだ余韻を漂わせる。もちろん、「不協和」が楽譜どおりということはあり得ないが、もともと「楽器」ではなく本物の「鐘」を使うと考えられていたとすれば、不協和は想定内だろう。ベルリオーズが、主人公が亡霊、魔女、いろいろな化け物に囲まれながら、処刑された自分自身の弔鐘を聞いていると場面設定し、昨日書いたような指示を楽譜にわざわざ書き込んだことを考えると、ノリントンの鐘の使い方は、「楽譜の指示を忠実に守った」というような事務的なものではなく、ベルリオーズの意図を正面から受け止めた結果のものと言える。

 現代の演奏者は、楽譜にどこまで手を加えることが許されるのだろうか?どこまでなら解釈で、どこからが編曲なのだろう?昔、適当な鐘が手に入らないということもあって、テューブラー・ベルで代用した結果、明るく甲高い音になり、何となくそんなものだ、という意識が生まれてしまったのかも知れない。あるいは、長く定番とされてきたミュンシュの演奏に影響を受けた結果かも知れない。だが、鐘が手に入らないという状況は、作曲者も想定していて、だからこそピアノで代用のプランも提示されているわけだ。それに従わないのは違反だろう。

 いずれにせよ、ノリントンの斬新な演奏は、楽譜=作曲者に忠実という、演奏家として当たり前のことをした結果だということが、この鐘を聞いていてよく分かった。だとすれば、「斬新」だとか「奇抜」だとか言って顔を背けるのではなく、自分自身の先入観と偏見を洗い流すつもりで聴いてみなければ・・・と思った。本当はこんなこと、アーノンクールで分かっていたはずなのに・・・ね。


(余談)スマホはおろか、ガラケーさえ持っていない私は、何か気になることがあった時に、インターネットでさっと調べてみるという習慣がない。「ググる」という言葉をかろうじて知っている、というレベルだ。そんな私が、昨夜ふと思い立って、「幻想交響曲 鐘」の検索をしてみた。私以前にも何人かの人が問題意識を持ったらしく、いくつか「幻想の鐘論」といった趣の記事が見つかる。「19種類の録音聞き比べ」などという音が出るものさえある。それらの中で、倉田わたるという人が1992年3月20日に書いた「幻想交響曲の鐘について」という一文を読むと、楽譜の問題もあるような気がする。私が持っている音楽之友社のミニチュア・スコアは「旧全集版をもとに、新全集版を参照して製作したオリジナル版である」と書いてある。倉田氏は全音楽譜出版、オイレンブルグ、そしてベーレンライターの新全集の3つを見ているようだ。倉田氏の3つは、いずれも鐘のパートの下に、代用のピアノパートが書かれているらしい。鐘の音がいくつ重ねられているか、記事からは分からない。音楽之友社版はそんな書き方をしていない。もしかすると、鐘を単音で鳴らしている演奏は、それはそれで「ある楽譜」に忠実なのかも知れない。