二宮金次郎の本(続々続)

 かつて、小学校によく建てられている二宮金次郎像にいささかの関心を持ったことがあって、3度に渡って駄文を書いたことがある(→第1回第2回第3回)。全国の二宮金次郎銅像には、全て等しく「一家仁一国興仁、一家譲一国興譲、一人貪戻一国作乱、其機如此」という『大学』の一節が刻まれている、というある方の指摘(「石巻かほく」のコラム「つつじ野」所載)を元に、身近な金次郎像で確かめながら、なぜその一節なのかということについて、自分なりの考察をしたものである。
 一昨日、朝日新聞の土曜版「be」第6~7面「はじまりを歩く」欄では、金次郎の故郷、小田原の二宮金次郎像が取り上げられていた。ちりばめられた写真の中に、手に持っている本の文面部分のものがあるのだが、私は見た瞬間、びっくりしてしまった。そこに書かれているのは、「心正而後身修、身修而後家斉、家斉而後国治、国治而後天下平」(引用に当たり字体を改め、読点を付けた)で、確かに同じく『大学』の一節ではあるが、「全国の全ての像が等しく」と言うに反して、石巻市立湊小学校の金次郎像と言葉が違うのである。全国の二宮金次郎銅像で、金次郎が手にしている本の文言が「全て同じ」というのはウソだということになる。反例は一つでも見つかれば、偽の証明として十分だ。
 『大学』とは、もともと儒教の経典である『礼記』の第42章のことである。なにぶんいつ成立したかが分からない古い本なので、本文には大きな乱れがあって、首尾一貫しないことが古くから指摘されていた。それを大胆に整理したのが徳川幕府の御用学問「朱子学」で有名な朱子(本名は朱熹、1130~1200年=南宋)である。
 朱子は本文の順序を改め、孔子の言葉を弟子の曾子が記録した「経」1章(7節)と、「経」についての曾子の意見をその弟子が記録した「伝」10章とに分けた。「一家仁一国興仁、一家譲一国興譲、一人貪戻一国作乱、其機如此」は「伝」第9章第4節、「心正而後身修、身修而後家斉、家斉而後国治、国治而後天下平」は「経」第5節である。「伝」第9章は、「斉家・治国」の解釈を記した章なので、これら両者は本文と解説の関係に当たる。
 もっとも、以前の私の考察によれば、金次郎は書物の言葉を金科玉条とすることを否定し、「人を救う」という信念に基づいて行動することこそを大切だと考えていた。それからすれば、『大学』のどこを取って来ようがたいした問題ではない。
 今回の「be」には、金次郎の7代目子孫中桐万里子さんという方が登場する。中桐さんは祖母から「銅像は貧しくても勉強しなさいと言っているのではないのよ」とたびたび聞かされてきた、と言う。その上で、「大切なのは一歩を踏み出している足。口だけ頭だけではなく、行動することなのよ」とも。これは、『二宮尊徳翁全集』に基づく私の見解と一致する。私の理解は正しかったのだな。安心とも納得ともつかぬ気持ちになった。たいして特別な思い入れのある人物でもないのだが、一度行ってみたいものだ。その生家や活動のフィールド。