『福沢諭吉の真実』(2)

 石河幹明という人は、慶應義塾を卒業して、1885年に『時事新報』に入社し、1922年まで『時事新報』一筋の生涯を送った。本人は主筆になることを目指したようだが、自分との思想的違いをよく知っていた福沢は、石河を実務者としてのみ評価し、思想家としてはむしろ否定していたようだ。「何かに凝り固まった考え方をする人間を軽蔑していた」福沢にしてみれば、石河はつまらぬ男にしか見えなかったらしい。石河が主筆になったのは、福沢の息子・捨次郎が社長となり、さらに福沢が脳卒中で言葉を失った1998年秋以降のことである。
 石河は、時事新報社を退職直後の1923年、慶應義塾評議員会から福沢諭吉伝の執筆を依頼される。石河が福沢の思想をよく理解していたかどうか、それを誠実に正しく伝えようとしていたかではなく、単に長く時事新報社にいて福沢と接しており、無署名の論説の中のどれが福沢自身によるものなのかを選り分けられるのは、石河しかいないという判断に基づいての人選だったようだ。結果として、この人選は大きな不幸を招く。
 もちろん、詳細は『福沢諭吉の真実』を読んでもらえばいいのだが、石河がその作業においてしたことは驚異である。正に、カバー折り返し部分に書かれていたとおり、「思想犯罪」と言うこそふさわしいような作業だ。

「石河は『福沢諭吉伝』を執筆するにあたって、書簡その他の記録から、福沢の健康状態や長期旅行により校閲が絶対に不可能という時期を念入りに調べ上げており、なかなか尻尾を掴ませないのである。」

 この一文に書かれた事実に、石河の周到さがよく表れているだろう。つまり、石河は、この時期の福沢は旅行中だったから、文章を書いて(もしくは添削して)新聞に発表できたはずがない、誰か別人の手による文章なのではないか?という提起が為されないように、アリバイ工作をしながら、自分の書いた文章を『福沢諭吉伝』や、それの後ろ盾である『全集』に紛れ込ませていたということである。そして、こうなるともちろん、単に自分の文章を福沢のものと見せかけるだけではなく、自分にとって不都合な福沢の真筆をも排除する方向に動くことになる。

「石河の伝記や全集の編纂方針は、福沢の思想に一定の枠をはめ、そこからはみ出すものはたとえ福沢の真筆であるとしても捨て去る、というものだった。そのために石河が描き出す福沢像は妙に教条主義的で自由闊達さに乏しくなってしまっている。」

 石河という人の犯罪的な作業は、十分非難に値するが、その後の福沢諭吉研究者が、『福沢諭吉伝』や大正以降、石河によって編纂された『全集』を無批判に使って研究を進めてきたことは、また別の意味で驚きだ。しかも、それは相手が福沢諭吉であるだけに、丸山真男遠山茂樹服部之総といった碩学たちを含むのである。著者は、どのような人々がなぜ『全集』や『福沢諭吉伝』を信じ、どのように福沢像を間違って描いてきたのかについても概観する。
 「脱亜論」という一文がどのようにして有名になったかを取り上げた第5章を読むと、時代の文脈から切り離された形で文意が解釈されることで、主題が見失われることの恐ろしさを感じるとともに、「有名な」などという冠が著名な研究者によってデタラメに付けられ、一人歩きし、人々に信じ込まれていく様子が実に滑稽だ。
 もうひとつ、まったく別の意味で私が感心するのは、石河幹明という人物の「無私」である。なぜなら、この人は自分の文章によって自分の名を残したいとは考えていない。おそらく、自分の文章を福沢のものと見せかけて『全集』に入れるというのは、名前よりも思想を尊重した結果であり、しかも、その思想を広めることが世の中のためになるという確信があってのことだっただろう。自分の名前は、『福沢諭吉伝』や『全集』の著者・編者として残れば十分だ、ということである。彼の仕事がいかに犯罪的であったとしても、私はその「無私」に対して、なぜか「感銘」にも似た気持ちを抱く。
 奥書が古いので、「research map」で著者を検索してみる。それによれば、1961年生まれ。私より1歳年上だが、1986年に慶応を卒業しているので、大卒時点で考えると、私と同級である。その後、私と同じ東北大学の大学院に進んでいる。専攻は「日本思想史」。院生時代は西田幾多郎を研究していて、学位論文も西田哲学で書いたらしい。
 私が所属していた研究室のある文学部6階には、日本思想史と東洋史の大学院生合同研究室というものがあって、日頃から日本思想史の院生とはわずかながらも付き合いがあった。しかし、どう記憶をたどっても「平山洋」という名前は思い出せない。こんな優秀な人が身近にいたのに接点が作れなかったのは残念だと、後悔にも似た気持ちが募ってくる。
 また、現在の肩書きは静岡県立大学国際関係学部助教と書かれている。ハーバード大学の客員研究員であり、福沢諭吉研究では認められて、ミネルヴァ書房の日本評伝選『福沢諭吉』を始め、電子書籍を除いても5冊の単著があるようだが、そんな人が、なぜ一般的な定年年齢である60にも近くなって、地方大学の助教という駆け出し的な地位にいるのだろう?どうも、仕事とポストがあまりにもアンバランスだ。このことが、マスコミ受けのいい派手な研究がもてはやされ、地道な仕事が軽視されるということの表れでなければいいのだが・・・。
 ともかく、『福沢諭吉全集』の偽造を丁寧かつ科学的に解明した著者の仕事は偉大だ。このような基礎的な作業こそ、本当に評価に値する歴史研究であろう。研究の結果よりも、研究という作業そのものに対する感動を覚える希少な例でもある。だが、全集の偽造という「思想犯罪」は、福沢諭吉以外についても誰かによって行われているのかも知れない。なんだか何もかもが疑わしく、信じられないような気になってくる。人間が作り出す「歴史」というものは恐ろしく、それを研究することは難しい。108円の新書は、そのことを再認識させてくれた。(完)