高村光太郎の次に、電車読書の対象となったのは冼星海だった。冼星海もしくは抗日戦争期の中国についても、気が付けばそれなりの量の書物が手元にあった。読みながら、冼星海という相変わらず日本ではまったく無名の作曲家についても、自分が知っていることを文章にしておいた方がいい、という気持ちが生じてきた。
『「高村光太郎」という生き方』の様々な問題点、作品としての甘さに気付いた私は、出版前に高村光太郎に関する私の見解について、多くの人の目にさらし、批判を受けなかったことこそが重要な間違いであると思った(それが分かっていたとしても、国文学系の学会に所属していない私には、その手段がなかったのだけれど・・・)。その反省に立てば、冼星海については、最終的に本になるかどうかは別として、とにかく少しずつ文章化して、人の批判を受ける必要がある、と思った。
その文章を発表する場があるとすれば、東北大学の中国学三研究室が出している『集刊東洋学』以外にはなかった。しかし、劣等生にとって、大学は敷居の高い場所だった。実力を身に付けることもなく、20年も前に卒業した人間が、その時の専門とはまったく違うテーマをぶら下げて大学に現れるというのは、まるで「亡霊」みたいなものだろうから、冷たい扱いを受けるのが落ちだろうと想像すると、ますます敷居は高く感じられた。また、思いつくままにダラダラと書くならともかく、原稿用紙50枚程度の分量で、明瞭なテーマと起承転結を持つ完結した文章を書くのは窮屈だな、とも思った。
一方、それを避けていてどうなるものでもない。2006年に恩師・中嶋隆藏先生が定年退官し、その後を引き継いだのが私の大学時代の先輩だったことで、少しは気が楽になった、という気持ちもあった。自分は「学問」で飯を食っているわけではない、「学問」はオマケなのだ、という意識も心を軽くする要素だった。
2009年2月に、最初の論文『1940年の重慶・桂林・延安』を提出した。いいにせよ悪いにせよ、何の反響があったわけでもないので、「人目にさらして批判を受ける」という当初の目的が達せられたかどうかは怪しい。しかし、「批判」がすぐに寄せられるとは限らないし、「批判」のないこと(=無視)が、最も痛烈な批判であるとも考えられる。一方、査読に価値があることは実感できた。査読によって問題点や書き方についていろいろと指摘してもらえたことは、やはり私が文章を磨いていく上で重要だったと思う。とにかく、自分が書いたものを人の目にさらすことは、おっくうではあっても絶対に大切なことなのだ。
多少なりとも後学のために書いておこうかと思ったのはここまでである。後は、「学問」の価値について、もう少しだけ蛇足めいたことを書いておくことにする。
もともと、私の中国現代史研究は、私を感動させた音楽の作曲者・冼星海が何者かという単純な好奇心からスタートした。しかし、それが明らかになるにつれて、実は冼星海の音楽家としての実力は、少なくとも歴史に名を残すほどのものではないことが分かってきた。私を感動させた「黄河大合唱」にしても、指揮者・厳梁坤が編曲し、冼が書いたオリジナルとは似ても似つかぬ、とまでは言えないものの、相当大きく姿の変わってしまったものである。二つ存在するオリジナルの片方はあまりにもシンプル、もう片方はあまりにも仰々しいもので、ともに実演には堪えないもののようだった。オリジナルによる録音がいまだかつて存在しないことが、そのことをよく物語っている。冼が歴史に名を残しているのは、あくまでもその政治的姿勢が共産党の方向性と一致し、毛沢東の意にかなって「人民音楽家」というお墨付きを得たからに過ぎないようだった。冼星海が何者かを追求する作業に、さほど大きな意味はないようだった。
一方、冼星海自身に音楽家としての価値がなかったとしても、彼について調べる中で、彼の生きた時代の状況が明らかになってくることには、純粋な歴史学として多少の価値があるように思われた。また、当時の冼星海に求められていたのは、抗日戦争勝利のために、芸術を使って大衆を動かすことだった。音楽家が自分の表現したいことを、自分の望む方法で表現することは、求められても許されてもいなかったのである。冼星海が抱えていた最大の問題は、芸術化と大衆化をどのようにして両立させるか、ということだった。
知識人が大衆とどう関わるか、これは私にとってリアルな問題だった。私程度の人間でも、世の中の多くの高校生とは次元の違う知的世界に住んでいる。自分が面白いと思うことを彼らに語っても、多くの生徒にとっては理解できず、面白いとは思えない。一方、彼らにとって面白いと思えることは、私にとって無価値もしくは退屈である場合がほとんどだ。しかし、知識人が自分たちの同質集団の中に閉じ籠もれば、夜郎自大になるばかりで知識は生かされないし、社会を力強く動かしていくこともできない。知識人が大衆と関わり、社会を動かすためにはどうすればよいのか。それを我が事として歴史から学ぶとすれば、冼星海は興味深い考察の対象だった。
しかし、思想に従って生きることが可能かどうかは怪しい。例えば、冼と同じ時期に延安で活動していた何其芳という作家は、賀竜率いる第120師団にに従い、従軍作家として前線へ行ったにもかかわらず、生活に適応できず、いわば苦難を恐れる形で、5ヶ月後に逃げるように延安に戻ってしまった。頭で必要性を理解しながら、現実には行動できないという現象はしばしば起こる。現場に居て、必要性を思想として持っていた人が不可能なものが、「学問」を通して思想を作り強固にすれば可能になる、などということがあるのかどうか・・・?。芸術化と大衆化の問題もまた同様である。
私が学問を「道楽」であるとするのは、現在の自分の職業との関係で考えてというだけでなく、そのような「学問」の性質・限界を意識してのことだ、とも言える。知識人は大衆にどう関わり合うべきなのか、「学問」は現実に対してどの程度の力を持つのか・・・?。私は新しい知識を手に入れることが純粋に楽しくて、「道楽」として「学問」をしている。だが、副産物として、それらのことについて考え、生きる上で何かのメリットが生まれてくれば、それに越したことはない。(終わり)