私の学問史(14)



 事に向き合った時に、利害を超えた自分独自の判断を尊重するという「心学」系人間の思想は、「原因(動機)に生きる、結果(思想・評価)は知らない」という立場を生み、思想自体の解析を拒絶していることは既に述べた。しかし、それはあくまでも本人の意識の問題である。生み出された思想や人生の中には、その人の判断主体の何かしらの性質、価値観というものが表れているはずである。

 ところが、王陽明でそれを明らかにする作業は非常に難しい。彼の人生は公務(官僚としての仕事)と講学の二本の柱から成り立っている。私生活につての言及は、時代的な特性からほとんど見付けることができない。その中で、公務こそが、理想と現実との間に立ってどのように身を処したかという興味深い考察対象となるが、その際の行動や思考に関する陽明の言葉は、ほとんど全て「奏疎」「公移」といった公文書、もしくはそれに類する文書の中に表現されていて、その時代史に関する詳細な知識と語法に関する特殊なトレーニングを積まなければ読解は容易でない。しかも、立場や状況による制約が大きすぎて、どれだけ本心が表れているかも怪しい。一方で、時代的に近く、言葉が平易な高村光太郎はそれが比較的やりやすい。

 私において、そのような作業が一般の思想解析の作業と違うのは、彼等の問題意識をなぞる形で、結果→原因ではなく、原因→結果という観点に立つことになるからである。王陽明高村光太郎のような強靱な自我が、自分を取り巻く社会と折り合いを付けながら人生を生み出していく様は、それだけで十分に興味深いことにも思われた。

 ちびちびと続いた「高村光太郎論」の作業は半年以上かかった。私の遅筆もともかく、『高村光太郎選集』以外は索引も作らず、ノートさえ作っていなかったという不手際、書きながら分からないことが後から後から見えてくるという「学問」の性質による部分が大きかった。

 書いている途中から、これは一冊の本にする価値のないものだろうか、と思うようになった。本を書くというのは、現実感のない遠い世界の話だったが、既製の本を見てみても、その質は上から下までバラバラだ。私は、原稿をいくつかの出版社に送ってみることにした。いろいろと調べてみると、お金さえ出せば出版してくれる会社はいくらでもあるようだったが、大金を払って、いわゆる自費出版系の会社から本を出しても、さほど価値があるようには思えなかった。結局、「三一書房」が比較的安い経費で出してもよいと言ってくれたので、2007年5月に私の高村光太郎評伝は一冊の本として日の目を見た。編集者の努力のおかげで、体裁としても分不相応な立派な本になった。

 この本は意外な評価を受けた。『週刊読書人』なる新聞の書評で、福島県在住の詩人・和合亮一氏が「傑出した評伝」などと褒めてくれたと思ったら、間もなくSLBC(学校図書館ブッククラブ)という団体によって、高校の図書館向け推薦図書に指定された。『河北新報』に載った書評はとても立派なものだった。三一書房内部のゴタゴタ(経営者変更)もあったりなどして、最終的に、版を重ねることはなかったが、日本文学に関するずぶの素人のデビュー作としては、製作の過程から含めて、ひどく幸せな扱いを受けた本であった。

 ところが、それはあくまでも「結果」に過ぎない。私は必ずしもそれを喜んでいたわけではない。出版された直後から、いろいろなアラが目につき始めたからである。そのことについては、このブログでも触れたことがある(2011年4月10日、2013年10月20日)。誤字のような表記の問題ではない。内容的な問題である。隅から隅まで甘い作業だ、と思った。しかも、出版直前くらいにCiNiiを知って、高村光太郎関係論文の検索ができるようになり、それらのいくつかを見てみると、私の見解に変更を迫られるとか、重要な箇所に関し既に誰かが同じことを言っているといった致命的問題こそないものの、補足すべきことはたくさんあると思われてきた。「本」というものの価値がどの程度なのかは知らないが、他の情報に比べるとはるかに固定的で、後に残りやすい物であるからには、やはりいつの間にか探すことさえ難しくなってしまうような校内の雑文や、ブログの記事とは違う質のものでなければらなない。拙著はそうなっていなかった、ということである。

 しかしながら、この作業によって、今まで何となく分かっていたことを文字化することで、明瞭に分かっている点と分かっていない点とに分け、曖昧な点をはっきりさせていくという作業の面白さ、文字化によって思考を深めるという作業の面白さを改めて認識した。ぼんやりと読書をしてご託を並べることと、それに基づいて文字で表現することは、次元の違う高度な作業なのだと思った。(つづく)