私の学問史(3)



 私は、教養部の2年生の時に、思いもかけない科目(「健康科学」!)の単位を落として留年してしまった。教養部に3年いた都合で、私が中国哲学の研究室に入る直前に、私が中国学に進むきっかけを作って下さった金谷治先生は定年を迎え、退官されてしまっていた。研究室を率いていたのは、まだ助教授だった中嶋隆藏先生で、助手として石田秀実さんがおられた。

 結果から先に書いてしまうと、ここから先、修士課程(正しくは「博士課程前期」)修了までの4年間は、ある意味で、私にとって不毛の時間だった。中嶋隆藏先生という碩学(という言葉の似合う年齢にはまだなっておられなかったが・・・)と、石田秀実さんという少壮気鋭の研究者の下で学ぶチャンスを得ながら、その環境をまったく生かすことができなかった自分はなんとも不甲斐ない。そこで、以下では、なぜ私は中国哲学という学問に挫折したかについて、その理由を明らかにしなければならない。

 まずはひどく他愛もない二つの理由がある。ひとつは、自分が無能、特に語学力(中国語ではなく漢文)において非常に劣っていた、ということである。ただし、自分が本当にやりたいことであれば、その前に語学の壁が立ちはだかったとしても、何とかして乗り越えようとするに違いないので、語学の壁を克服できなかったのは、意欲を高めきるだけのテーマを見つけられなかった、ということ(後述)と関係するかも知れない。もうひとつは、大学の特権的な生活にあぐらをかいてしまった、ということである。純粋さが欠けていた、と言ってもよいだろう。生活にも居場所にも困っていなかった上、市民からも大事にされた。そこに、大学もしくは学問は高尚なものであるという思い上がりが混じり込んで、甘えを生じた。これらはどちらも重要だったが、やはり、研究テーマとの関係に比べれば、あまり本質的とは言えない。

 私の卒業論文は『王龍渓論』である。王龍渓は王陽明の第一の弟子とも言うべき人物である。なぜ私は陽明学をテーマに選び、この人物を取り上げたのか?どうしてもその理由を思い出すことができない。ただ、あれこれと書物を手にしていて、私が「面白い」と感じたのは、陸象山、程明道、王陽明といった、いわゆる「心学」系の思想家であったことだけは確かである。そんな中で、王龍渓の多少激烈な言動が、王陽明のような中庸の思想家(朱子学者から見れば十分に激烈なのだが・・・)よりも、若かった私にとって共感でき、魅力的に感じられたのだろうと思う。

 中国思想の中心にある儒学は、基本的に聖人(理想的人格者)になることを究極の目標とする。「心学」とは、心の潜在的能力を信じ、それを発揮させることが最善の判断をもたらし、人格を高めると考える思想的立場である。真実は何か、正しいやり方はどのようなものか、自分自身の心に問い直すだけで掴むことができるのであり、いかに虚心に、先入観や偏見、そして世間の評価に惑わされることなく自分の心に問い直せるかが、「学ぶ」ということなのだ。対比的に考えるなら、朱子学の場合、世の中には「理」と呼ばれる真理があると仮定し、それを身に付けるためには、不完全な「心」に頼るのではなく、外に向かって学ぶことで心の中に真理を蓄積し、その積み重ねの結果として高い境地に至ることができる、と考える。「理」は古の聖人が書いた書物「経書」に書かれているので、いわば、古典の勉強をすることこそが、人格の完成をもたらす、と言うのである。語弊を恐れずにあえて言えば、「心学」は常に視線が自分の内部へと向かい、朱子学の場合、それが外部へと向かう。「心学」には、教養のない者にでも実践できるという手軽さと解放性、目の前の事象に臨機応変に対応できる柔軟さ、古人の言動に縛られない自由さがあった。

 同じ時期、高校時代からその作品に親しんでいた高村光太郎の『選集』全6巻(春秋社)を入手した。高村光太郎も思想としては「心学」系の人間である。私は、王陽明とその門人の言葉によって高村光太郎を読み解き、高村光太郎の言葉によって、陽明学者たちの言葉を理解した。

 卒業論文は、新しいことを書く必要はない、テキストをしっかり読むためのトレーニングだ、と言われていたので、『王龍渓全集』を読んで、その内容を整理しただけのものであったが、陽明学の基本的理解というだけなら、かろうじて及第点に達していたように思う。

 問題は、大学院に入った瞬間から始まった。修士課程の2年間では、大学時代よりも広い範囲の読書が求められた上、修士論文では、「新しい知見」を盛り込むことが求められた。ところが、私は何かの本を読んでいて面白ければ、その面白さを語りたくなり、それが二番煎じであろうが、三番煎じであろうが、つまり「新しい知見」でなかったとしても一向気にならなかったのである。人類にとっての「新しい知見」を手に入れるよりも、自分がその面白さを人に語れることが大切だった。ところが、その私にとっての「面白さ」を語る作業は、学問の在り方とは一致しなかった。これが第一の問題である。高村光太郎は、「ああ研究!研究とは何だろう!(中略)僕には批評ができないと一緒に研究もできない。研究もせず、批評もせず、唯見て感心していたいのだ」と語る(「ミラノの本寺とダ ビンチの壁画」明治42年10月)。これは私自身の実感でもあった。

 同じく高村光太郎が随所で繰り返す言葉に、「原因に生きる、結果は知らない」というものがある。「原因」とは、「動機」とか「衝動」とかいう言葉に置き換えた方が分かりやすいかも知れない。「結果」とは、主体的な判断の結果として生み出された思想であり、それに対する他人の評価である。周囲の状況に振り回されることなく、常に主体的な自我によって真実が何かを考えること、何かの判断をする時の心の動きだけを大切にし、そこからどのような思想が生み出されたか、それが人からどう評価されるかは気にしない、という意味になる。「心学」的立場を非常によく表している言葉だと思う。

 私たちが通常「研究」と称して行うことは、「結果」から始めて、様々な「結果」同士の関係を見出しながら、その背後にあるものや価値を探り当てようとする。一方、「心学」系思想家は「原因」にこそ執着する。彼等と同じ視点に立てば、「研究」は成り立たない。彼等の言葉に向かう時の私の心の動き(=「原因」)があるばかりである。そして、世の中には「原因」にばかり執着するひとつの人間のタイプが存在するのであり、王陽明も王龍渓も、高村光太郎も、そして私も、そのタイプに属していた。これが第二の、私が「研究」に専念できなかった最も重要な理由である。(つづく)