王陽明『朱子晩年定論』のことなど・・・私の学問史(7)



    (二)

 正徳9年(1514年)、43歳の時から、陽明は断続的に約2年にわたる南京暮らしを始める。この時期に陽明は、『朱子晩年定論』(以下『定論』と略記)という一書を編集した。この書は陽明の序文に続けて、朱子の書簡34通(但し字句の書き換えや、書き換えが見られる)を並べ、最後に朱子の真意を伝える後人のものの代表として、元の呉澄の書簡1通を収めたものである。編集した理由を陽明は序の中で次のように語っている。


「南京で官位に就いた時、改めて朱子の本を手に取り、内容をチェックしてみた。すると、朱子は晩年にそれ以前の思想が間違っていたことに気付いて、たいそう深く後悔し、自分を裏切り人をだました罪は償うことができないほどだと考えるようになったことが分かった。よく読まれている『四書集注』や『四書或問』の類いは、朱子が中年のまだ思想形成期における未完成の説であって、自らそれらの書物が内容的に誤りであると考え、書き改めようとしたが、できないままに死んでしまった。また、朱子の語録の類いは、その弟子が偉ぶって自分の意見を紛れ込ませている。だから、朱子の日頃の説と矛盾する部分がたくさんある。しかも、世の中の学者は、自分の見聞にとらわれて、朱子の形成期の思想ををひたすらありがたがるだけだ。朱子が悟った後の説については、およそそれを勉強していない。どうして私の言葉が信じられずに、朱子の言葉が後世に伝えられないのを不思議に思わないのか?私は自分の考えが朱子と違わないことを幸いとし、朱子が私と同様の思想を私よりも先に得たことを嬉しく思う。一方、世の中の学者がひたすら朱子の未完成の思想を尊重し、晩年悟った後の思想を学ぶことを知らず、競って口やかまし朱子の学問を語って正しい道を見失わせ、自分が異端に陥っていることに気付かないのを、私は嘆かわしく思う。そこで、朱子の晩年の思想を表す言葉を集めて編集し、個人的に仲間に読んでもらうことにした。諸君が私の語ることを疑わず、聖人になるための学が明らかになるように祈る。」


 南京に駐在していた時、朱子の著書を検討し直すことによって陽明は、世間で信奉されている朱子学が実は朱子中年の論であり、朱子晩年の論は自分の説と寸分違わぬものであることに気が付いた、だから、人の誤解を解くために朱子晩年の論を集めてみた、という訳である。ひとまず、『定論』編纂の事情はこれで明らかであろう。

 『定論』を朱子学研究の成果であるかのように語る陽明自身の言とは裏腹に、この編著が強引かつ杜撰な編集に基づくものであることが、やがて羅整庵によって指摘される。整庵は正徳15年(1520年)、陽明に宛てた手紙(『困知記』巻五)の中で、『定論』に収められた手紙の受け取り人の一人である何叔京が、陽明が「思想形成期における未完成の説」とする『四書集注』『四書或問』が最初に著される2年前に没していることなどを論拠として、『定論』の内容を疑うのである。整庵の指摘に対し、陽明は次のように答えている。


「私が『朱子晩年定論』を作ったのは、やむを得なかったのです。中に収めたものが朱子の若い時のものなのか、晩年のものなのかについては、確かによく検討していない部分がありました。ただ、必ずしも晩年に書かれたものでなかったとしても、ほとんどは晩年のものと言っていいでしょう。しかし、私がこの本を編集した意図は、私と朱子の考えを隅々まで比較検討し、この学を明らかにすることが大切だと考えたことにあります。日頃から私にとって、朱子の考えは神聖なものです。少しでも朱子の考えと私の考えが食い違えば、私には耐え難いことです。そこで、私はやむを得ずこの本を作りました。」(『伝習録』中巻「羅整庵宛て書簡」)


 『定論』の不備をある程度認めた上で、『定論』編纂の意図を「この学」を明らかにするためと言っている。「この学」とは陽明の言う「朱子晩年の定論」であり、陽明自身の思想であり、同時に「聖人になるための学」である。既に見たとおり、陽明の思想は実体験の中でつかまれたものであるから、陽明の胸中に自分の思想に対する疑いは全く無い。一方、陽明とても当時の士大夫と同じく、朱子の学に対しては並々ならぬ畏怖を感じている。その間に生ずるきしみを自分なりに解決しようとした結果が、朱子を自分に引き寄せすぎて誤りを含む『定論』となった。整庵宛の手紙を額面通り受け取れば、そのような彼の苦衷を読み取ることになるだろう。

 しかし、もとより陽明は朱子学を遵奉できなかったからこそ「五溺」の時代を過ごしたのであり、龍場で大悟すると、直後から朱子学に対する批判をはばかろうとしない。大悟の翌年に示されたという「知行合一説」にして、既に朱子学に真っ向から対立するものであった。この時期になって、陽明が先のような苦しい弁明をするのには無理がある。

 『定論』編纂の動機を述べたものとして、既に引用した二文の他、安之という人物に宛てた書簡が残されている(『王文成公全書』巻四所収。正徳14年(1519年)書)。


「都にいた時、饒舌な性格のため話をしすぎてしまい、私を攻撃する者がたくさん現れた。そこで、朱子が晩年に悔い改めた後の説を選び、それらを集めて『定論』にしたところ、もめ事が収まった。門人たちが最近、雩の町でそれを出版したと聞き、最初は非常に不愉快に思った。しかしながら、人々がそれを読んだところ、悟る者が後から後から出て来た。思いもかけない効果があったおかげで、私も話しをする手間が省けた。」


 「話をしすぎる」とは、陽明が自分の信念を盛んに説いたことを言うであろう。以前から、その思想を「禅」だと非難されることの多かった陽明である。当然のこと、彼を批判する者が群がり起こった。陽明が『定論』を編纂したのは、彼らの批判を一時的に避けるためだったと言うのである。

 さて、同じく陽明自身によって語られたこれらの理由のうち、どれを彼の本意とすべきであろうか。それは、安之宛書簡に書かれたものである。なぜなら、安之がいかなる人物かは未詳であるが、それだけに「序」や整庵宛書簡に書かれたような事を書き送ることは全く差し支えがなかったであろう。一方、安之に書き送られたようなことは、当の朱子学者に見せるつもりで書かれた「序」や、有名人であるだけに公開される可能性が高く、また当人が朱子学に好意的な立場に立つ羅整庵宛書簡には絶対に書けないことだからである。また、整庵によって指摘されたような内容の杜撰さは、安之宛書簡に見られるぞんざいな編纂のいきさつによって納得できる。門人が陽明の了承を得ずに上梓したことについて「非常に不愉快に思った」とするのは、陽明の自著刊行に対する基本的態度であるが(後述)、陽明自身が『定論』の内容の杜撰さを知っていたためとも考えられる。

 王陽明の学者としての良心を疑うことは容易である。しかし、陽明は今日的な意味における学者ではなかった。彼が求めたのは学問的真理ではなく、迷いの中に居る人々に、自分がつかんだ思想をいかにして理解させ、迷いの中からいかにして救い出すかということだったのである。このことは、次のような陽明の言葉に対する考え方を見る時、より一層はっきりするであろう。


「門人の中にこっそり陽明先生の言葉を記録した者がいた。先生はそれを耳にし、その門人に言うことには、『聖賢が人に教えるのは、医者が薬を用いるようなものだ。すべて病気に応じて処方し、その具合によってこまめに量を加減する。大切なのは病気を治すことであって、そのための決まった方法があるわけではない。もしひとつのやり方に固執すれば、往々にして人を殺すことになってしまう。今、私と諸君とは問題点を克服しようというのであり、もしも問題が解決すれば、その時私の言葉は不要になる。もしも私の言葉を金科玉条として墨守すれば、やがて自分をも他人をも誤った道に引きずり込むことになる。そうなると私の罪は取り返しが付かない。』」(徐愛『伝習録序』)


 陽明が求めているのは、言葉に含まれる真実ではなく有用性である。言葉は学者の病(欠点)を治す薬であり、病が快癒した時に役割を失うものである。病が治るのであれば、毒を処することも彼が厭うことはなかったはずである。だとすれば、たとえ杜撰な内容を持つとはいえ、『定論』が、御用学問としての朱子学に溺れ、学の本来の目的を見失った者を正道に回帰させるに効ありと知った場合、陽明がその書の意義を否定することは考えられない。無断で上梓された『定論』によって開眼する者が多く現れた時、陽明が「思いもかけない効果があった」と言ってその流行を拒まなかったこと、既に見たとおりである。(つづく)