王陽明『朱子晩年定論』のことなど・・・私の学問史(8)



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 前述のとおり、陽明は『定論』の中に、朱子以外の人物の手による文章として唯一、呉澄の書簡を収めている。陽明によって「晩年」の朱子の学を最も正しく継承したと評価される呉澄の学は、朱子学を基礎としながらも、陸象山の思想を多分に取り入れたものであり、従って陽明の思想に近似する側面を持つ。その呉澄が著した『礼記纂言』に、陽明は序文を書いている。書かれたのは正徳15年(1520年)、『定論』ができて5年後、南京を去って4年後のことである。その冒頭に言う。


「礼は理である。理は性である。性は命である。これは天命であり、深遠で尽きることがない。天命が人にあれば性と言い、明らかで条理があるのを礼と言い、純粋に善であるのを仁と言い、区別をはっきりとしてきちんと処理するのを義と言い、明瞭に認識するのを知と言う。それらが性に渾然と備わっているのは、理がひとつであるということだ。だから、仁は礼の体であり、義は礼の宜であり、知は礼の通なのだ。基本の礼三百と細目の礼三千(原文:経礼三百曲礼三千)は、ひとつとして仁でないものはなく、ひとつとして性でないものはない。」


 朱子学陽明学の最も特徴的な違いとして、理(正しさ)の根源を性(心の中心にある汚れを含まない部分)とする(「性即理」)か心とする(「心即理」)かということがある。分析的な考え方をしない陽明は、通常はより実感的な「心即理」を語るのであるが、『礼記纂言序』冒頭では堂々と「性即理」が語られる。のみならず、この文章は隅から隅まで朱子学臭に満ちている。例えば、「経礼三百曲礼三千」とは朱子『中庸集注』第二十七章の言葉であるが、これは、やはり朱子が『近思録』巻一に引く張横渠の言葉、「礼儀三百威儀三千」を言い換えたものである。

 臨機応変を旨とする陽明の学は、礼という規範的なものと最も相容れないかのように思うが、これを読むと、陽明が礼を否定しないばかりでなく、経書の内容や朱子の解釈を踏まえた上で受容していたように思われてくる。陽明は次のように続ける。


「後の時代の礼について語る者の言うことが、私には分からない。礼に用いる道具類や制度についての意見の違いにごたごたとこだわり、枝葉末節の法律制度に振り回され、一生涯あくせくし、神官のくだらない儀式で精根尽き果てて、『中庸』に言う所の「礼はこの世で最も重要な五倫の道を修め、天下の大本を立てることができる」ということを忘れている。「礼だ礼だと言っても、玉や絹布のことか?」(『論語』)であり、「不仁である人は、礼があっても何ができよう」(同)なのだ。」


 冒頭の発言は否定されない。むしろ、冒頭のような朱子学的見解を信じるからこそ、後の時代の儒者の無理解を嘆いているかのようである。このような準備の後、陽明はいよいよ自説を展開する。


「礼と形式(原文:節文)との関係は、コンパス・定規(以下、道具とする)と図形との関係のようなものだ。図形がなければ、道具の働きというのは見えてこない。同様に、形式がなければ、礼も見えてこない。しかしながら、図形は道具によって作られたものであって、図形が道具であると考えることはできない。だから、道具によって図形を作っても、図形は使うことができない。道具を捨てて図形を作り、図形によって道具を作るようであれば、道具の役割はなくなってしまう。だから、道具から生まれる図形は一定ではないが、図形には一定の道具があるのである。」


 礼と形式とが、それぞれ道具と図形にたとえられ、礼が形式の根源たるものであるとされている。礼は時に応じて様相の異なる形式を生み出しはするが、根源としてひとつである。こうなると礼は、もはや規範ではなく、「心」もしくは「良知」と呼ばれる判断主体であることに気が付く。このいかにも陽明らしい主張を見る時、冒頭の「礼は理である〜」という旧態依然とした言葉が、実はかなり斬新な内容を託されたものだということに、読者はようやく気付くのである。そして更に、陽明は続ける。


「宋代の儒者である朱先生は、礼に関する経書の乱れを嘆き、正しくはどうあるべきかを考え、文章を正そうとし、『儀礼』が本文、『礼記』が注であると位置付けた。しかし、その仕事が完成しないうちに亡くなった。その後、呉澄先生がそれを受けて『礼記纂言』を作ったが、朱先生の説にこだわらず、文の順序や軽重について、新たに明らかにしたことが多かった。」


 確かに、朱子は晩年、多くの学者を動員して『儀礼経伝通解』の編纂に取り組んだが、完成を見ずに没した。その中で朱子は、『儀礼』を経として扱い、『礼記』(だけではないが)を注として扱っている。また、呉澄自身も『纂言』を作るにあたり、朱子の遺志を継ごうとするものと語ったりする(『三礼序録』=『宋元学案』巻九十二所収)。だから、陽明が「朱先生の説にこだわらず」と言う場合の「朱先生の説」とは、「朱子の思想形成期における未完成の論理」を指すと読むべきだろうし、その結果、呉澄の礼論は『儀礼経伝通解』の延長線上にあるものとして見えてくる。これは、朱子の礼論が未完に終わったことにかこつけて行われた呉澄の論の正当化であり、『礼記纂言序』の中で展開される陽明自身の主張の正当化である。

 この小文が『定論』の発想と基本的に同じ発想に基づいており、尚かつ『定論』よりも一層緻密で無理の見えにくい構造を持つこと明らかであろう。これは、いかにして朱子学者達に違和感を与えることなく自説を語り、「病」の中に在る人を救うかという陽明の苦心が、『定論』の反省と言語観とに裏打ちされて結晶したものと言ってよい。

 『定論』は、「私は南京時代以前、まだいささか偽善者の傾向があった」という陽明の述懐(『伝習録』巻下、第112条)と結び付けられて、南京時代の陽明の曲学阿世を示すものとされたり、朱子学への決別宣言とされたりする(*)のだが、それは当たらない。俗学者の教導を自らの任とした陽明が、試行錯誤の過程で生み出したひとつの発展的な道標として見るべきである。(つづく)


*岡田武彦『王陽明と明末の儒学』(明徳出版社、1970年)第2章第2節、吉田公平「王陽明の『朱子晩年定論』について ― 明末清初朱陸論序説」(『九州大学中国哲学論集』特別号、1981年)参照。なお、吉田氏は、上の「安之宛て書簡」には否定的見解を示している。