王陽明『朱子晩年定論』のことなど・・・私の学問史(6)



(このブログに掲載するに当たって、漢文の引用を口語化するとともに、本文の言葉も必要に応じて平易なものに改めたり割り注(括弧書き)を加えたりする。その他の注は専門的、もしくはマニアックなので、一つを除き割愛。口語化については、注がなくても一般の人に意味が分かるように、言葉を補ったり省いたりしながら、相当に自由なものとした。)

 「王陽明朱子晩年定論』のことなど」

   (一)

 王陽明(1472〜1528)は、本名を守仁と言い、餘妖の人。彼が生きた明代中期は、科挙に合格して官吏となり、やがて宰相となることが男の歩む理想の道とされ、それに伴って科挙の課題である朱子学が隆盛を極めていた時代である。

 朱子学は本来、聖人となることを究極目標とする学問であったが、時代が下るに従い、その目標も朱子の真意も見失われ、学者は科挙に合格することのみを目標として、煩瑣な訓詁(言葉の解釈)と暗記とにあくせくするようになる。王陽明の思想形成は、学問の本来の目的に立ち返り、それにこだわったことから始まっている。

 陽明が師に就いて学問を始めたのは11歳の時であるが、学ぶことによって自分も聖人になり得るという確信を持ったのは18歳、婁一斎に出会った時である。以来、確信と情熱のみあって手掛かりの得られないまま、任侠に溺れ、騎射に溺れ、辞章に溺れ、神仙に溺れ、仏に溺れるいわゆる「五溺」の時代を過ごすことになる。

 正徳元年(1506年)、陽明は、言諫(上司に対する意見)がもとで詔獄(勅命による特別裁判)にかけられた人々の弁護を試み、結果として自らも同様に詔獄にかけられ、やがて貴州・龍場駅の駅丞へと左遷されることになった。着任は正徳3年(1508年)である。この龍場での体験が、陽明独自の思想を確立する契機となった。その際の事情を記した『年譜』の記述は次の通りである。


「龍場は貴州の西北、深い山の中にあった。猛獣や魑魅魍魎がいる上、伝染病が蔓延している。土地の者は言葉が通じず、話ができるのは中央からの移住者だけであった。もともと家がないので、土を盛り、木を立てて家を建てることを教えなければならなかった。私を左遷した劉瑾の怒りは収まらない。自分自身で考えるに、利害打算は全て超越することができたが、生に固執し死を恐れる気持ちを拭い去ることだけはできなかった。そこで、石の枠を作り、その中で自ら、私はただ天命を待つ、と誓った。毎日毎晩、居住まいを正して座り、精神を統一して「静一」の境地を求めた。しばらくすると、心がスッキリとしてきた。ところが、家来の者たちはみんな病気になった。そこで、私は自ら薪を割り、水汲みをし、粥を炊いて彼らに食べさせた。また、彼らが落ち込んでしまうのを心配したので、彼らのために詩を吟じてやったりもした。それでも彼らが喜ばなければ、生まれ故郷である越の国の民謡を唱い、時には冗談を言い、ようやく、彼らも病気や僻地にいることを忘れたのだった。そこで思ったのは、聖人がこの場にいたとして、打開のために私が取った以外の方法があっただろうか、ということだ。こうして、突然夜中に、それまでどうしても意味の分からなかった「格物致知」(『礼記』大学篇の言葉)の意味を悟った。まるで、寝ている最中に、私に語りかけてきた者がいたようだった。思わず、叫んで寝床から飛び起きたので、家来の者たちはみなびっくりした。この時始めて、私は聖人の道が私の心に生まれつき備わっており、以前、自分の外に真実を探し求めていたのは間違いであったことを知った。」


 「龍場の大悟」として有名なこの一節を、敢えて長々と引用したのは、陽明の思想がこの記述の中に尽きていると思うからである。

 住み慣れない山中に在って様々な難題に直面した時、陽明は従者のために食事を作り、歌を唱い励まして、ようやくその困難を切り抜ける。その時、自分の行動を省みて思うに、「聖人がこの場にいたとして、打開のために私が取った以外の方法があっただろうか」と。陽明は困難を切り抜けるそのような方法を、読書によって学んだのでも、人に教えられたのでもなかった。自分自身でそうすべきだと思ったとおりにそうしたまでである。この事に気付いた時、陽明は直ちに、聖人になるための彼独自の方法論を帰納する。それは、現実に対応を迫られる一刹那(人生はこの刹那の連続体である)に自分が取るべき態度は、臨機応変に自分で考えればよい(若しくは、考えなければならない)という至って単純なものである(この方法論がやがて結晶して「良知を致す」という言葉になる)。人の心には、それだけの素質がある。ただし、その際の判断とは利害打算によるのではなく、生死をも忘れる程の強く純粋な善への指向に基づかなければならない。

 当時の中国においては、いかに優れた思想も経書儒教の経典)の言葉によって説くことができなければ無意味であった。陽明の大悟は実体験に基づく確信であったが、彼もそれを経書の言葉で語らなければならなかった。独自の経解釈が生まれてくる所以である。引用中の「「格物致知」の意味を悟った」とは、朱子とは異なる解釈によって、経書の言葉と自らの確信が矛盾しないことの最初の発見であった。

 実体験に根ざしているだけに、陽明の思想は実感的であり、一切の分析を拒絶する性質を持っている。その思想の深化、発展は、よりゆるぎのない人間観や世界観の構築にあるのではなく、単純な思想を、どれほど間断なく緊張を保って生き抜くことができるかということにあったのである。故に、この後陽明から生み出される様々な表現 〜 例えば知行合一説、誠意説など 〜 は、時代と状況の要請によるものにすぎず、解析してみれば、全て先の考え方に還元されると言ってよい。故に、彼の様々な表現から陽明思想の核心を抽出しようとする解析作業は、甚だ退屈なものとならざるを得ず、更には彼の思想の本当の姿を見失わせる危険をも孕んでいる。本稿では、陽明の朱子学者に対する対応をとおして、彼の思想が実際に運用される様を見てみたい。(つづく)