私の学問史(5)



 二度目の非常勤講師は、信じられないほどスムーズだった。私なりに、一度目の失敗で何かは得たのだろうと思う。生徒からもそれなりに相手にされるようになり、休日は、女子生徒たちがよく私の家に遊びに来た。

 一方、大学では、まったくデタラメな修士論文王陽明における聖人について』を提出し、博士課程に進まないという前提あればこその「お情け」で通してもらった。I先生の産休は、年度を跨いで10月まで続くので、学籍を失った後も講師を続け、その間に教員採用試験を受けることにした。奨学金の返済規定を読んでみると、大学を離れてから1年間は返済義務が発生しない。それも好都合だった。

 大学院生時代のことについて、いささか余談を書いておこう。

 図書館の二号館が建つ前、その場所はラフな野球場(広場)になっていた。毎年春になると研究室対抗野球大会がトーナメント形式で行われ、そのための練習も盛んだった。夏休みには「アジアリーグ」というたいそうな名前の野球大会もあった。何のことはない。中国文学、中国哲学東洋史、印度学仏教史という4つの研究室による、「マイナーリーグ」と名付けた方が似合っているような大会だった。野球はほどほどに、終了後の酒宴だけを楽しみに参加している人も多かった。

 私は「学問」よりは「野球」の方が得意だった。研究室の劣等生が、野球の時だけ輝けたのである。もとより、中国哲学の研究室は、学部3年生からオーバードクター、教官まで入れても10名あまりの弱小研究室である。あくまでもその中では上手かったというだけなのだが、日頃はまったく頭の上がらない中嶋先生をキャッチャーに、マウンドからボールを投げるのは楽しかった。

 中国学3研究室には野球狂が多かった。野球ができたおかげで、酒の席にも、その他の遊びにも、そして読書会にもよく誘ってもらえた。特に東洋史研究室の先生、助手、先輩は、よく声をかけてくれた。自分の所属がどの研究室なのか分からなくなるほどだった。現在、東洋史の教授をしておられる熊本崇先生が、当時は助手で、『続資治通鑑長編』と『朱子語類』の読書会を主宰しておられた。この宋代史の大家の指導で、特に『続資治通鑑長編』を読む機会を持てたことは、たいへん貴重な経験であった。もちろんこれらの読書会でも私は劣等生だった。読書会の成果として、参加者が分担し、『朱子語類』の訳注を学術雑誌に連載していたが、私の担当した回ばかり外部から間違いが指摘されたので、熊本先生が呆れたり怒ったりしていた。冷や汗が流れる思いだったが、実力がないのだから仕方がない。それでも歴史の原史料は面白いという実感は持てた。淡々とした簡潔な記述の中に、なんと人間が生き生きと見えてくるものか、と感心した。歴史学なら、私は先日書いたような変な壁にぶつかることなく、「研究」ができたのかも知れない、と少し思った。

ところで、通常、修士論文は、整理して学術雑誌に発表する。複数に分けることが多い。もちろん、修士課程だけで止めてしまった人はその限りではないが、それでも1本くらいは活字にする人が珍しくない。私はそんな気にならなかった。それをするためには、大学から離れた後も先生の指導を受けなければならず、申し訳ないとも、気恥ずかしいとも、煩わしいとも感じられたのである。大学の研究室は、私にとってもはや場違いな場所だった。

 しかし、実は修士論文の一部を、私は他の場所で活字にした。大学を離れて1年後、宮城県の高校教員となった私は、宮城県高等学校教育研究会国語部会というところが出している『研究集録』という冊子(第32号、1991年)に寄稿したのである。今でこそ、この冊子は、授業実践記録ばかりを載せるようになっているが、20年あまり前は「紀要」的性質が強く、授業とは関係のないような論説が誌面を埋めていた(直接役に立つことだけを求めるかどうかという点で、学校の状況・変化をよく表している)。これなら、大学の先生に手を加えてもらわなくても勝手に出せる。デタラメとは言え、せっかく無理矢理書いたのだから、何となく、そのままにしておくのももったいないという気持ちが少しあったのかも知れない。

 そんな性質の文章だが、意外にも、今読み直してみて、あまり不愉快にならない。この部分だけ見てみれば、その質の低さが気にならないのである。CiNii(国立情報学研究所の論文検索サイト)でも検索できず、今後、人目に触れることもない文章だと思うので、少し寄り道をして、この機会に公開しておこうと思う。(つづく)