私の学問史(4)



 大学院入試の口頭試問で、「アルバイトをせずに2年間勉学に専念できますか?」という質問があった。修士課程の2年間は、研究者としての基礎を作る重要な時間だ、アルバイトなどしている暇はないぞ、ということだ。

 大学院1年生の8月だっただろうか?私が教育実習でお世話になったN高校のU先生から電話がかかってきた。W先生が心臓病で急逝した、講師を探しているがなかなか見つからないので、非常勤講師として来て欲しい、という話だった。私は大学院入学時の誓約を盾に、断ろうとした。ところが、U先生は、私の師・中嶋隆藏先生と大学時代の同級生だった。私に電話をかける前に、U先生は先手を打って中嶋先生に電話をかけてあった。既に君が非常勤講師をすることについての了承を取ってある、後は君が首を縦に振るだけでよい、ということだった。断れなかった。

 もともと高校教員になる気などなかった私は、教員免許を取るつもりもなかった。しかし、文学部、中でも哲学科、中でも中国哲学などを専攻すると、研究者としての就職口はほとんどないし、大学院生時期に高校でアルバイトをする必要も出てくるから、絶対に免許だけは取っておくように、という指導に従い、教職課程を取っていた。両親の居所の関係から、母校で教育実習ができなかった私は、大学の斡旋に頼って、居所から離れた通いにくい学校に割り当てられることを恐れ、個人的にN高校に頼み込んで教育実習をさせてもらった。N高校国語科には、それ以前に、一人の卒業生が実習の申し込みをしていたのだが、無理をして私を引き受けてくれた。そのことに対する恩もあった。

 後から思うと、中嶋先生が私のアルバイトを認めたのは、友人U先生の頼みだったから、ではなく、私の将来性に見切りをつけていたからだろう、と思う。ともかく、それらの理由によって、私は秋から、N高校で10時間ほどの授業を受け持つことになった。

 生徒は手強かった。教育実習の時に円満な関係を作れた生徒達が、まるで言うことを聞かない。自分が高校時代のことを思い出し、高校生などというものは、放っておいても勉強するものだ、という高校生観はガラガラと崩壊した。教育実習生はある意味で気楽な存在、先生ではなく「お兄ちゃん」である。しかし、非常勤講師といえども、「先生」は成績決定権を持っている「先生」である。切実な利害関係のある人間に対してはシビアなのだ、と気がついたが、その時には既に手遅れだった。勉強する気配など微塵もなく、授業中はひたすら私語にふけり、収拾が付かなくなった。私の気が狂うのが先か、年度末になって任期が切れるのが先かという辛い時間を過ごした後、かろうじて年度末が先に来た。

 気は狂わなかったが、学問は停滞を極め、再び学生生活に専念できるようになった時には、蓄積ができるどころか、最低限の修士論文を書けるかどうかさえ怪しい状況になっていた。昨日書いたような、学問自体に対する壁もあって、その状況を克服しようという意欲は湧いてこなかった。

 そうしたところ、夏休み前後だっただろうか、またN高校から電話がかかってきた。I先生が産休に入るので、再び非常勤講師として来るように、中嶋先生にはやはり了承を得てある、という電話だった。私は観念した。N高校で教育実習をさせていただいたのも何かの縁、その学校でたまたま現職の先生が死に、講師が見つからなかったというのも、I先生が産休に入るというのも、U先生が私の指導教官と友人関係にあったということも、全てあまりにも出来すぎた偶然であり、縁なのだ、と思った。また、発狂寸前で前回の任期を終えた私は、高校通いを止めて冷静な意識を取り戻すに従い、実は私の側にもいろいろな非があったことに気付き始めていた。もうこりごりだ、というよりは、今度はこうできるのではないか、というような思いが生まれてきたのである。私は講師を引き受けた。同時に、最低限の修士論文を仕上げて卒業する、しかし、博士課程には進まないという決心をした。二度目の非常勤講師の感触次第では、高校の教員も悪くない、とも思い始めていた。 (つづく)