「でっかい教師」になるために

 昨日は組合主催の「秋の教育講座」で、仙台に行っていた。この手の自主研修会(組合では教育研究集会、略して教研集会と言う)が近年甚だ低調であることに対する危機感については、毎年のように書いている(→例えば)。昨日も同様。回復の兆しは一切なく、折角、千葉から講師を招いたにもかかわらず、集まったのは25人くらい(主催者である実行委員含む)。
 そもそも、講師を千葉から招いたというのも、決して景気がいいからではなく、むしろ教研集会衰退の一現象なのである。と言うのは、次のような事情による。
 この「秋の教育講座」は2年前に始め、今年が3回目という新しい行事である。最初の時、特に若い教員を対象とするのであれば、レポート(教育実践報告)持ち寄りではなく、年配教員が講義をする形の方が喜ばれるのではないか、と考えた。そして、分科会を2つ設定し、一つは障害児学校(支援学校)、もう一つは授業と学級経営を扱う。後者の分科会は、前半と後半に分けて、それぞれ宮城の実践家が講話をする、という形にした。
 ところが、講師とするにふさわしい組合員である「宮城の実践家」がなかなか思い当たらない、思い当たって依頼をすれば断られる、ということが繰り返された。仕方がないので、主催者としての責任を取って、実行委員の中から某社会科の教諭が授業、私が学級経営についてお話をすることになってしまった。昨年は、他県からも人が来ることになっていたので、宮城の農林水産業教育をテーマにしようということになった。その時点で、組合員から講師を探すことはほとんど絶望的だと思われたので、未組合員に若干の「謝礼」を払って来てもらうことにした。そして今年は千葉県から、となれば、組合員であるか否かを問わなくても、もはや宮城で講師にふさわしい人を見つけられない、と想像してしまうだろう。そしてその想像は、だいたい半分くらい当たっている。
 え、半分?じゃぁ、残りの半分は?・・・それは、昨年この先生のお話を聞いて、ひどく感激した某教員が、ぜひもう一度宮城に招きたい、と強く主張したという、至ってまっとうな理由である。で、お出ましいただいたのは10年ほど前まで千葉県の県立高校教諭で、今は国士舘大学客員教授であられる加藤公明先生である。専門は日本史。今年の企画は3時間15分に及ぶこの先生の講演1本、である。
 この手の集会の価値が、参加者数で決まるわけではないことはよく分かっていたつもりだったが、それでも、20人あまりしか申し込みがなかったとなれば、気分は低調である。しかし、実際にやってみると、やはり価値は参加者数で決まらないということを再認識させられた。加藤先生のお話は面白かったし、会場がさほど広くなかったこともあって、25名でも閑散とした感じはしなかった。
 昔、先生の授業になるといなくなる女生徒がいたそうである。探してみると、体育館の裏で本を読んでいた。なぜ授業に出ないのか、先生が問い質したところ、社会科は教科書を読んで、太字の所を憶えれば試験で点数が取れるから授業に出る価値がない、と言った。その言い分に対しては、どうしても「私の授業では教科書に書かれていない、歴史の本質的な面白さを追求するんだから授業に出なよ」と反論(?)せざるを得ない。そこを出発点として、先生の「考える日本史の授業」はスタートしたそうである。なるほど。
 そして、史料(文献だけではなく物も)から何が読み取れるか、一つの行動に対する賛否を軸に討論する、といった形で授業は行われる。私たちを相手にした模擬授業(縄文式土器からどのような社会変化が想像できるか?)でも、DVDで見せてもらった先生の授業風景(徳政一揆は是か非か?)でも、まるでマジックのように、いろいろな意見が引き出されていく。
 それは本当に面白いのだが、教材研究のみならず、生徒が書いた意見の下書きの添削にしても、論述形式の考査の採点にしても、膨大な時間を必要とする実践と思われた。その点を質問してみると、確かに時間をかけているのだが、残業をする前に、先生自身が、できる限り授業以外の仕事を減らし、授業に専念できる状況を作る努力をしておられる。先生自身も言っていたとおり、もしかすると、そのことを白い目で見ていた人もいるかも知れない。だが、教員の仕事の中心は授業であり、それにできるだけ多くのエネルギーを費やせるようにすることは、あまりにも当たり前のことだ。実践の内容だけでなく、そんな先生の授業に対する姿勢に触れられたことはよかった。
 参加者に対して、先生が担当教科を尋ねた。社会科(地歴+公民)がやはり多くて、10人くらい(以上?)いた。おそらく、加藤先生が社会科(地歴)だから、「あっ、行こうかな」と思ったのだろう。逆に言えば、「あっ、私の担当と違う、だから行かない」と思った英語や数学、理科などの教員がそれなりの数いたにちがいない。この推測が正しければ、残念なことである。縦割りの狭い世界に閉じこもらず、どこからでも普遍性・共通性を見つけ出し、工夫のヒントを手に入れる・・・そんな頭の使い方こそ大切だと思われるからだ。
 チラシの一番上に、私たちは「でっかい教師になるための学びの種がいっぱい」というコピーを載せた。私たちが考える「でっかい教師」というのは、そんな頭の使い方ができる教員なのだが、「ちいさな教師」にはそういう発想の存在がそもそも分からないんだろうなぁ。