幻の新関温泉(資料3)

田口三郎著『蔵王登山案内』(山形山岳研究会、1919年=大正8年6月)より


第3篇「蔵王火山彙」第3章「大正7年の御釜火口湖の活動」

(前半略)
御釜の減水混濁
(前半略)
御釜の活動増進して瓦斯・蒸気を放散すると共に、他方新関等に於て温泉活動力を減少せるも相当の関係なりと認め得べきが如し。
峨々温泉に於いては気温24.2度の時、57.9度なり。然るに峨々温泉誌に依れば62.8度にして、約5度の低下となる、或は近年幾分減少を示すに非らざらんかと考へらるるも判明せず。新関温泉においては、湧出口の所にて51.5度にして、新関温泉小誌に依るに57度なれば5.5度を減じたることとなる、温泉は錆鉄色を有し、稍々鹹味を帯び、前時はその混濁せること濃厚にして、浴槽は不透明なりしに、本年六七月の頃、温度低減と共に著しく透明となれり。現時は既に再び稍濃く錆鉄色を帯ぶるに至り、且温度も増し始めたるものとす。要するに蔵王山火山活動の増進に伴ひ、同山に最も接近せる新関温泉は、一時的温度の低下、湧水の減量を呈したるが如し。是は蔵王山活動の鎮静と共に、次第に復旧するものなるべし。
△局発地震
本年八月十二三日の頃、御釜中心より東々北方へ約千七百米を距つる新関温泉にては、一回性質急激なる短継続時間の地震あり、震動が主として上下動より成りて、平生の如く緩慢なる水平動ならざりしを以て、温泉主婦等は地震に非るべしなど語り合へりとぞ、是は蔵王山局発の火山性地震なるべく、新関以外の地にては、青根にても峨々にても地震を感ぜざりき。

第6篇「蔵王山附近の温泉場」第二章「新関温泉」

一、仙境新関温泉
 新関温泉場は全く人里離れてゐる。地は海抜四千尺の高所、五色岳の分脈川音岳の中腹なる字新関に在る。五色、熊野の二峰は巍峩として西空に聳立し、東南に物見岩、倉石山を望み、千丈の滝は として凄じい音を立ててゐる。地勢高壮雄大、一度小丘上に登って東方を下瞰すれば、遠く太平洋の碧波を望み、翠巒白水歴々指点する事が出来る。仙境とは蓋し溢美ではない。
 土地高峻幽邃であるから、盛夏の候、蝿も蚊も居らず、朝暮は涼冷を感じ、日中と雖も華氏の八十五度を越した事は無いと云ふ。

二、新関温泉まで
1、山形市から笹谷街道を釈迦堂まで進み、右に分かれて宝沢を通り、いよいよ山路にかかり、名号峰と熊野岳の中間で峨々温泉と分かれ下り、二十四町で新関につく、行程五里半。
2、高湯温泉場から蔵王登山道を上り、ワサ小屋の所から左へ入り、熊野岳の肩を下り、峨々新関の追分の所で第一の道に合ふ。
3、上山から清水道をとり、刈田神社をかけて東へ下り、賽磧から左に折れ、温泉場へ出る。大黒天から左に入る道もある。行程六里。
4、宮城県遠刈田から賽磧まで来て右に入る。此の道は中々よく出来てゐる。
5、峨々温泉から山越して来る道もある。

三、新関温泉の歴史
【発見開湯】明治四十年、現新関温泉主新関善次郎氏が、自己経営の牧場と造林の監督がてら新温泉を発見せんものと山中を探り歩き、湯花らしいものの流れてゐるに遭ひ掘鑿。翌四十一年遂に熱泉を得、茲に温泉場を開くに至ったのである。
その後、道路の修繕に宿舎の改善に莫大の出費を惜しまずして経営されたので、あの深山幽谷に立派な温泉宿が出来たのである。

四、浴客のしをり
【温泉の性質】・・・『小誌』に同じなので省略
【効能】・・・同前
温泉を服用するには、一回に三勺から二合二勺位を、少量から漸次増加し、朝夕二回位清潔なものを採る。
【宿屋方】
新関温泉場はただ温泉主新関氏の一戸あるばかりであるが、旅籠でも木賃でも、どちらも至って割安である。食料は勿論、日用品まで温泉宿で安く供給してくれるから、不便を感ずる事は無い。

五、気候療法と新関温泉
 転地療法とは、その人々が常に住居している所を離れて、どこか別の身体に受ける外界の感じの良い地に転ずるので、是は気候療法を行うのである。気候療法とは、気候の感作を用いて疾病を療治するので、近来西洋諸国に盛んに行われる理学的療法の重要な一部である。
 新関温泉場は、四千尺に垂んとする高地にあるので、空気清潔、絶えて塵埃を含まぬ。夏季涼冷で気候療法には好適地である。それで此所に転地すれば、呼吸作用を盛んにし、血液循環を増進し、新陳代謝機能を発揚せしめ、随って呼吸器病、腺病、神経衰弱等の諸病には著しい効果を奏するものである。まして一方に天然温泉の湧出があるので、気候療法に加えて温泉療法を行い得るのである。

(今回の資料紹介はここまで)