幻の新関温泉(2)

② 新関家のルーツは高貴で名門

 当主が新関家のルーツを話し始めた。

「祖先の吉綱は1368年に長野の奈良井で生まれ、1393年に山形の若木に流れ着きました。当時は長子が家督を継ぎ、舎弟は自分の主人を探して放浪したようです。長野は木曽源氏と奈良井源氏の流れがあり、昔の祖先がいろいろ調べて清和源氏からの流れの家系図も作って、本家にもそのコピーがあります。それが正しいかどうかは、私には分かりません。
 若木に流れ着いた吉綱は、農民の用水の渇望に応え、二ツ筒堤を完成させました。この功績により、山形城主最上(頼宗)公の家来となり、新しい堤を作ったということで新関姓を賜り、新関因幡守吉綱と改めました。これが新関姓の始まりです。現在でも若木には新関姓が多いです。
 新関家のお寺は3つあります。一つは山形市寺町にある善龍寺。ここには16代までのお墓があります(ここで言う16代とは、新関家としてという意味で、初代善八=後述はその7代目、現当主は17代目に当たる)。二つ目は鶴岡にある方眼寺。ここには新関因幡久正のお墓があります。久正は最上義光の家来で藤島城の城主でしたが、最上家改易の際に久正も古河藩預かりとなりました。2500石をもらいましたが、単身で移り、女子どもは山形に残しました。残った子どもが現在の新関家の祖先になります。方眼寺には古河で亡くなった久正が葬られています。三つ目が、若木の広福寺です。この新関善八家の初代は、男の子が生まれなかったために、娘に養子をもらいました。新関家の存続を危惧した初代善八は、代々善八を名乗るようにと決めて、それ以降善八を名乗るようになりました。11代目善八である私の名前は善彦ですが、温泉を作った2代善八は新関家8代目です。」

③ 8代目新関善八が温泉主である。

8代目善八が、歩いて何時間も登らねばならず、且つ冬は閉鎖しなければならない場所になぜ温泉宿を建てたのか、ご存知かどうかダイレクトに当主に聞いてみた。
 
「あれは道楽ですよ。8代目は自分で働いたことがないんです。7代目善八は13歳で16歳の女性と結婚したんです。そして13人子どもを作りました。長男が早逝したため、次男の善次郎が継いで8代目善八になりました。8代目は1876年(明治9年)に生まれました。7代目が19歳の時になります。年が近いのです。新関温泉を開業した時は、7代目が52歳で8代目が33歳です。7代目が58歳で亡くなり、8代目が39歳で継ぎました。秋田犬と植木が大好きで、蔵王山中に良い植木として使えそうな木を探して歩き回りました。たまたま植木探しをしている時に、煙が出ているのを発見し、掘らせたところお湯が出ました。その年はそこまでにして、翌年の明治41年に200とか300人の人夫を派遣して更に掘らせたと聞いています。この明治41年7月15日が温泉を掘り当てた日として祭礼日になっているそうです。(床の間に飾ってある大徳利を取り寄せて)当時使っていた物で唯一残っているものですよ。当時の新関家の土地は、山形のこの実家から天童まで自分の土地で行けたそうです。そのぐらいの資産家だったのです。今でも三の丸で私有地は私の所だけです。市が売ってくれと言ってきましたが断りました。ただ、当時の土地賃貸契約などいい加減なものも多く、代が変わるたびに誰に貸しているかなど分からなくなり、農地改革などもあったため、今は当時の面影はありません。」

東北芸術工科大学の図書館で、当時の絵はがきを我々が見つけましたが、当時の写真ありますか?

「その絵はがきならありますよ。分家が山形の骨董屋と契約していて、新関家のものが出ると連絡が来るんです。これらの絵はがきは昨年購入したものです。志鎌さんの持っている方が種類が多いですね。建物は一つと思っていましたが、違うのですね。」

濁川を渡って宿泊する建屋が2棟、温泉棟(本館)がありました。濁川を渡る手前に1棟(分館)あり、そこが現在、湯殿山神社の石碑が立っているところです。

「そうなんですか。私は石碑の立っているところが温泉跡と思っていました。誰も教えてくれなかったなぁ。牧場もあったと聞いてるんですけど、新関温泉のどの辺にあったか知っていますか?」

新関温泉の地は、冬は寒さが厳しく土壌も溶岩で牧場には向いていないので、そこに牧場があったとは思えません。

「私は、新関温泉の同じ場所に牧場もあったと思っていましたが、違うようですね。昭和36年か37年、9代目善八の時代に新関温泉を復活させる話があったと聞いています。政治家にも頼んで許可まで取得したと聞いています。家のどこかに設計図も残っているはずです。場所は石碑の立っているところで、モダンな作りのはずです。結局、費用の問題とかあったと思いますが、実現しませんでした。」

『新関温泉小誌』というのをご存知ですか?

「それなら知っています。家にもあって、昔コピーして親戚とかに配っています。(少し探してくれた後)家にあるはずですが、今はどこにあるか分かりません。」(続く)