自分を伸ばすのは自分

 昨日午後は、組合主催の教育研究集会(教研)、「秋の教育講座」であった。私も主催者の一人で、後半の分科会では講師にもなった。組合の層の薄さを象徴する。
 集まったのは42名とのことだが、本部役員を含むので、実際には35人くらいと思った方がいい。若い先生方もいたし、中には分会(組合の校内組織)を通さず、直接申し込んで来た人も何人かいた。偉いなぁ、と思う。が、やはり参加者の数としては、県内にある県立学校の数、そこに勤務する教員数から考えると、極端なまでに少ない。
 各分会に送ったチラシが、誰かのところで止まってしまうとか、真面目に声かけや集約をしないとかいった問題があると思われたので、今回は、各学校のそれらしき人にわざわざ電話をかけて、集約を依頼したりしたのだが、効果のほどは残念ながら実感できなかった。
 私は、任意の勉強会というのが非常に大切だと思っているので、準備の段階から関わっていたのだが、このような会を維持することは非常に難しくなっている。他の教員がどうやって勉強をしているのかは分からない。どこかで何かの方法で勉強していてくれれば文句はないのだが、そうでないとしたらまずい。いつも同じようなことを言うけど・・・。
 さて、私が講師となった分科会は、クラス作りについてのもので、テーマ(タイトル)は「クラス作りで悩んでいませんか?」というものであった。もちろん、私が決めたのではなく、実行委員会で決まった後で、講師が私、となったのである。
 いま「もちろん」と書いたのは、私だったらこんなタイトルは絶対付けないからだ。「クラス作りで悩んでいませんか?」と問いかければ、まるで「私が解決してあげましょう」と言っているようだ。分科会の中でもお話ししたのだが、クラスという40人ほどの若者が集まる場所を預かっていて、悩みが発生しないはずもなく、それを1時間のお話で将来にわたって除去することが出来るはずもない。
 というわけで、私は、自分が教員になったいきさつや、教員になった後に自分の教育方針をどのように定め、それはどのようなものかというようなことを明らかにした上で、かの有名な(?)手書きの学級通信のサンプル(表だけ。→こちら)を16枚配って、私が生徒にどのようなことをどのように語ってきたかの具体的な話を少しだけした。そして、タイトルとの関係で言えば、むしろ悩むこと自体に価値がある、誠実に悩み、その姿をさらけ出すことが、生徒の心を動かし、価値ある教育になっていくのではないか?みたいなことを話し、最後に、次のように述べた。

「私の話にどれほどの価値があるかは分かりません。しかし、皆さんは休日に手弁当でこのような会に参加してでも自分を高めたい、いい実践をしたいと思っているわけですから、その心性が皆さん自身を伸ばすでしょう。本や新聞を読む生徒は成績がいい、本や新聞を読むと成績が上がる、ということがよく言われます。しかし、それは本や新聞を読むから成績が上がるのではありません。本や新聞を読むという面倒なことをしてでも、世界について知りたい、世の中の謎を解き明かしたいと思っているような生徒だから伸びるのです。大切なのはそのモチベーションです。今日のお話の中で、私は「学ぶ人は何からでも学ぶ、学ばない人は何があっても学ばない」「これをいかんせんいかんせんと言わざる者は、我これをいかんともすることなきのみ」「内側から支えられている人間は強く、外に求める者は弱い」というようなことを繰り返してきました。この教研への参加についても同じことが言えます。皆さんは「何からでも学ぶ」人であり、「これをいかんせん」と言っている人であり、「内側から支えられている人」であるはずです。」

 終了後は、恒例「交流会」という名前の宴会。分科会に参加していた若い先生たちが、案外残らなかったのは残念だった。「教研は夜作られる」という言葉もあるとおり、知り合った人間同士が、より自由に情報や意見の交換が出来る時間こそ貴重なのに・・・。教研文化の継承は難しい。