頭を「揺らす」進路指導



 今日と明日は、宮水の文化祭。校章にちなんで「錨章祭」という。今日は校内発表だったが、私は欠席。一人仙台へ行っていた。宮城県高等学校進路指導研究協議会という研修会のようなものがあったからである。よりによって文化祭当日なので、こちらを欠席すればよさそうなものだが、不幸にして、宮水は何年かに一度の発表順に当たっていた。これではまさか欠席できない。

 何を話すか何も考えていなかった夏休みの終わり頃に、題を提出するように言われたので、「本校の進路指導における現状と課題」という当たり障りのない、実質的な意味をほとんど持たない題を届け、今月に入ってから4ページのレポート(レジメ)を事務局に提出した。

 宮水の就職・進学実績の中で、水産海運関連産業に就職した生徒と、それに関係の深い学部学科に進学した生徒の比率を、過去6年について提示した上で、水産高校が水産海運関連産業での即戦力となる人材の輩出を期待して設立され、運営されている以上、その数字をいかにして増やすかという問題意識を持つことが大切だ、というようなお話をした。

 それはともかく・・・、この協議会には「進学」分科会と「就職」分科会があって、私がお話をしたのは、もちろん後者だ。発表に使われた資料は冊子として全員に配布される。閉会式の会場で、進学分科会の資料をパラパラ見ていたら、極めて特異な一つの資料に目が止まった。それは、県北の某高校に勤めるT先生という方のものだが、わずか1ページの、正に「レジメ(摘要)」といった感じのものである。役人化している教員が多い昨今、発表と言えば立派な資料を作り、パワーポイントを駆使して、中身のない話を立て板に水を流すように語る人も多い中で、この簡素さは逆に目を引いた。しかも、タイトルは「めざすは“あえて揺らし、広げる”進路指導 〜見たいものしか見ない人たちへの挑戦〜」という明確な主張を含んだものだ。その下に箇条書きされた部分も、日頃の私の問題意識と大いに重なり合う(→参考1参考2)。少しだけ言葉を拾い出してみると、例えば以下のようである。


・進路(希望)は決まっているという「危うさ」・・・選択しているようで選択になっていない。この道しかないという「怖さ」

・見たいものしか見ない進路選択

 (今自分が見たいものでなければ、いくら言われても自分事としてはとらえない)

・簡単に認めない進路指導・・・あえて揺らす。なぜを問う。「物分かりの悪い大人」で良い。

・旬は高3。あえて揺らす。道は1本ではない。挫折≠終わり。

・インターネット、携帯端末の功罪・・・根本的に考え(思考過程)が変わってきているのではないかという危惧。

・教員も携帯端末の1つにされているのではないかという不安


 二つの分科会は同時並行で行われていたので、もちろん私はT先生の発表を聞いてはいないけれど、上の解説をしろと言われたら出来るという自信がある。それほど私との距離が近い。私には、現状分析としても、教員の取るべき姿勢としても本当に正しいと思われる。T先生を私は知らなかったので声は掛けられなかったが、こんな人がいて、こんな意識で進路指導が行われている学校がまだあるんだな、というのは、世の中で行われていることがことごとく私の考えと逆であり、そのことに絶えずストレスを感じ続けて苦しんでいる私にとって、救いであり希望であった。

 閉会後、先日も山で一緒だった部活仲間のH先生にそんな話をしたら、T先生はH先生の大学時代の同級生だという。そして、レジメに書かれたような実践はTだからできる、まわりはそれに付いて行かない(付いて行けない)、というような暴露話を聞かせてくれた。恋は少し冷めた気分だが、それはT先生のいる学校に対する恋である。こんな考え方のできる人が、よりによって県のパイロットスクールとでも言うべき学校で、校長によって進路指導部長に指名され、大学現役合格何人、うち東北大に何人などというのとは違う価値観で動くことや、それを県主催の研修会で話すことが許されるというのは、やはり少しは希望の持てる状況だと思い直した。

 確かに、それはH先生の言うとおり、T先生の極めて個人的な意見であり、行動なのかも知れない。だが、それが隠すことなく行われていれば、やがてそれに共鳴し、あるいは影響を受け、生徒の頭を揺さぶる指導が広まって行くことが期待できる。生徒だけではない。教員の頭を「揺らす」のも大変なのである。