楽しく不安な教研集会



 昨日から、家族で秋保温泉に行っていた。必ずしも温泉旅行ではない。宮城県高等学校・障害児学校教職員組合(高教組)主催による「教育講座」という名前の研修会に参加していたのである。我が家は夫婦で組合員だし、子どもは温泉大好きだし、大人の分の宿泊費は組合から出るので、子どもの分若干を払って、極めて安上がりな家族旅行としてみんなニコニコ行くのである。

 第37回となった「教育講座」は、もともと高教組の自主研修会の中で中心的なものであり、200名以上が泊まりで参加していた時期もあるのだが、組合の衰退と歩調を合わせるように衰退を続け、今回はついに泊まりが50名あまり、日帰り参加を合わせても100名に届かないという状況になった。私は実行委員として、昨年の秋以来関わってきた。高教組主催とは言っても、労働運動に関する研修会ではなく、授業やその他の学校・教育問題について、実践をもとに検討するという至ってまじめで政治色希薄な勉強会である。

 宮水でも、若い先生方をずいぶん誘ったが、結局、組合員である常連以外は「ちょっとその日は〜」とか「今回は遠慮しておきます」と言って、誰も参加してくれなかった。組合主催というのが嫌だ、休日をつぶして勉強になんか行きたくない、部活その他の仕事がある・・・いろいろあるようだ。だが、最も大きいのは私の人徳の無さ、であると考えるのが、一番納得しやすい。

 1日目は埼玉の高校教諭・小池由美子先生による記念講演と教科の分科会、2日目は問題別と言って、教科以外の学校問題についての分科会があった。記念講演も本当にすばらしい内容だったし、私が出た「国語」「これからの学校教育」の分科会については10名あまりの参加と、3〜4本のレポート報告があって、非常に面白かった。毎日学校に行っているとはいえ、なかなか日頃の実践について事例検討会の形で議論する機会というのはない。任意性が保証された形で、上意下達でもなく、自分たちがやっていることの是非を検討し、アイデアを入手するチャンスとして、私はこれ以上のものを見出せない。仕事について、前向きにまじめに話し合うのは楽しいことなのである。

 安倍政権は、教育改革にも力を入れようとしているが、言うまでもなく、その内容は極めて管理統制的で、戦前回帰と言ってもよいような内容を持つ。今でさえも、学校は十分に息苦しい場所なのに、これを更に推し進めれば、全国で毎年5000人が精神疾患で休職に追い込まれるという異常な学校現場は、崩壊するならまだしも、その体制を積極的に支える教員だけの危険な場所になってしまうだろう。民主主義の崩壊だ。

 私の職場でも、新聞を読みながらため息をついている教員は少なからずいるし、現在の教育政策や教育行政の在り方がいいかと聞かれれば、言下に否定する教員が圧倒的に多いと思う。だが、彼らのほとんど全てが、じっと首をすくめて待っていれば今の嵐が通り過ぎていくと思っているかのようだし、悪いのは首相を中心とする政治家だ、と文句を言う。

 しかし、それは間違いだ。公務員だからと言って、唯々諾々と命令に服し、職員会議で文句は言わず、組合には入らず、今の社会で何が起こっているのか、政治がどのような意図でどのような方向に進んでいくのかに無関心でいる、そのような姿勢そのものが権力を積極的に支えているのである。彼らに悪意はない。だが、間違いなく「平和ボケ」はしている。多くの教員にとって、平和は人々の努力や犠牲によってではなく、自然に生まれたものであり、誰かが自ずから守ってくれるものである。この甘い意識が政治と教育政策を支えているし、当然のこと、自分自身の実践を見る目にも反映され、問題意識から遠離る。

 「国語」の分科会では、今まで「国語」分科会を支え、多くの実践報告で私たちを刺激してくれてきたT先生とS先生が定年退職前の最後の発表をした。彼らの後に続く世代は、私やE先生、M先生ということになるのだが、T先生、S先生に匹敵する実践を行い、若者を啓発していくのは難しいような気がする。そして、私の更に後の世代は、居るような居ないような・・・。ま、組合自体が、あと5年か10年のうちには自然消滅しそうな勢いだから、組合主催の教研の将来まで案ずる必要がないような気がするが、任意の学習会というのは、組合の存続を越えて続いていかなければならないとも思う。