要求の正当性を問い直す

 静岡へ行った話が終わらないうちに、この2日間、横浜に行っていた。教職員組合の2大派閥=日教組と全教の立場を超えて横のつながりを持とうと組織された、教組共闘連絡会と全国高校組織懇談会という団体が主催する、全国教職員学習交流集会に参加するためである。
 集会は午後からだったにもかかわらず、先週と同じく初電に乗り、9時前に上野駅に着いた。築地を訪ねるためである。実は、恥ずかしながら、以前から一度訪ねてみたいと思いつつ、なかなか行けずにいたのである。場内を見て歩くためのコネはあったのだが、ネクタイを締めていくのが煩わしいので止め、築地本願寺と場外市場だけを見物することにした。パイプオルガンが本堂にあるお寺というのも面白かったが、市場も面白かった。ものすごい人で、そのうち7割くらい(多分)が外国人というのはなかなか衝撃的だった。この次は、家族とでもゆっくり行こう。
 さて、肝心の集会では第2分科会というのに出た。私が希望したというよりは、宮城の高校から参加した人の中での役割分担である。テーマは「教育条件の改善」。2日間にわたり、神奈川の中学校、秋田の高校、和歌山の小学校、神奈川の高校から報告があり、それに基づいての討議が行われた。話は決してつまらなくはないのだが、例によって天の邪鬼な私は、最後にこんな発言をした。神奈川の、全日制高校に希望する全ての生徒が入学出来るように、という要求運動に関する報告を受けての発言である。

定時制にせよ、郡部の専門高校にせよ、入試のハードルが低い高校には、知的障害(問題)を抱え、勉強が苦痛で仕方がない生徒が多数入学しているのが現実だ。彼らは、本当は中卒後、机に向かって勉強したいなどとは思っていない。では、なぜそんな子たちが高校進学を志すかと言えば、みんなが行くからとか、中学校の先生や親から高校ぐらい出なければダメだと言われた、とかいうところだ。これは、高校進学の動機として正しいのだろうか?
 知的に問題がある、もしくは勉強が嫌いな生徒が、自分の本意ではない形で無理に高校に入学し、元々やりたくない勉強に向き合わされてストレスを溜めて問題を起こし、教員も生活指導や進級させるための工夫に大変な思いをしているという現実は、大きな社会的損失を生んでいると思う。彼らにも、中卒で自分の能力を発揮し、輝ける場所があるはずだ。そして、仕事をする中で勉強の必要性に気づいた時、改めて学校に入れば、その時に初めて学習は効果的に行われるのではないだろうか?大切なのは、中学卒の時点でニュートラルに進路選択が出来ることであり、そこで進学を選んだ子供と就職などを選んだ子供との間に、意識の上で優劣を付けないような社会を実現させることではないのか?
 組合と言えば、要求の実現ということが非常に重要で、絶対に正しいことのように考えられていて、こんなことを言えば批判されるのかも知れないが、要求の正当性を問い直すことも大切なのではないか?昨日来議論されてきた、エアコンの設置や奨学金の給付などについても、私はそのような問い直しが必要だと考えている。」

 教組の集会で、高校に入れない(私の意図としては「入らない」なのだが、参加者はたぶん「入れない」と理解する)子がいてもかまわない、という発言をするのは、本当に勇気がいる。意外にも、手厳しい批判は寄せられなかった。無視こそが最も手厳しい批判だ、ということのようにも、「実は私もそう考えていたんですよ」という思いがあった、というようにも見えた。現実にすり寄り、人の歓心を買い、問題の根源を問わなければ、問題は面倒になるばかりで解決しない。これはあらゆる社会問題について言えることだ。しかし、人々は目の前しか見ないし、根源的問題はたいていオープンエンドで、扱いが非常に難しいため、人はあえて目をそらそうとする。全てにおいてそうなのである。