「文字」のミステリー(2)・・・そして「学校」



 9月1日付けの『毎日新聞』日曜版(「日曜クラブ」)に、「読書は脳機能を活性化する」という記事があった。執筆者は某医大教授である。それによれば、大脳皮質の左側、真ん中より少し後の所に、文字の理解を司る部分があるらしい。言語中枢の存在は以前から知っていたが、その中で、文字だけを扱う部位があることは、初めて知ったような気がする。失念していただけかも知れない。前回書いたとおり、文字が音声に比べてずっと後になって生まれた新しい文化だとすると、それだけを扱う部位が脳の中にあるというのは、少し不思議だ。ともかく、文字が苦手というのは、この部分に何かしらの異常がある、ということになる。それがどのような異常かという研究は既に行われているに違いないが、残念ながら、私はその進捗状況を知らない。果たして、学習・教育・治療によって解決することなのかどうか・・・?

 前回引用した大学生の言葉によく表れていた通り、このような人が学校で勉強するというのは、本当に苦しいことだろうと思う。なぜなら、学校という場所は、少なくとも今のところ、文字で学ぶことを前提として作られているからだ。水産高校のように「実習」の比率が高いと言われる専門高校ですら、実際には、授業の3分の2以上が「座学」という文字による学びで占められている。

 だからこそ、発達障害の子供は学校で苦労し、現実を前にしてそれほど厳格ではないとは言え、適格者主義を採る高校以上の学校において、たびたび留年の危機に直面し、退学を余儀なくされることもあるのだろう、と思う。そのような状況を意識し、講師は、学校が「排除の論理」を用いることを戒める。そして、少年院入院者における中卒者と高校中退者の割合が、男子で68.8%、女子で63.9%を占めることを例に挙げ、高校に行かないことがいかに社会的なドロップアウトを招きやすいかと警告する。

 学校を止めた子供たちが社会的にドロップアウトする確率が高いことについて、講師は、現在の産業構造も問題としていた。サービス業が75%にもなる今の世の中では、文字を苦手とする子供が生きていく場を見付けることは難しい、彼らも手を使って物作りをする場があれば、と言う。私の知る限り最も新しい2007年の総務省統計でも、第3次産業の構成比は67%強で、しかも第3次産業=サービス業=文字を使う、と考えるのは短絡的に過ぎるだろう。それでも、講師も言うとおり、「文字を苦手とする」子供たち(人)にとって、第1次、第2次産業といった体を使って仕事を覚え、技術を身に付けていく分野の衰退は深刻なダメージであると思う。更に言えば、産業構造が第3次にシフトしているからこそ、文字を中心とする学校教育が重要視されるとも考えられる。

 高校現場に身を置く人間として、これは本当に困った問題だ。高校には高校として期待される、小中学校よりは一歩上のものがあることも感じるし、不適格者を排除することが、社会的な不安定を作り出すことになることもよく分かるからである。これは、社会が高校に求めているものが高等教育なのか、16〜18歳の青年の生活の場なのか、という問題でもある。

 だが、私は、講師が言うほど文字を必要としない仕事が少ないとは思っていない。サービス業も含めて、世の中には、文字がなくてもできる仕事は相当な量で存在しているだろう。だからこそ、私は以前から社会を複線化しなければならないと訴えているのである。この「文字が苦手」という問題を考えていると、その思いは益々強い。「みんなが行くから」とか「高校くらい出ておかないと」という理屈で高校に入って、辛い思いなどする必要はまったくない。いろいろな選択のひとつとして、小学校か中学校を出た時点で、ニュートラルに、公平に進路選択が保障され、仕事をしながらでも、必要に応じて学習を継続できるようなシステムを作ることこそが必要なのである。今の日本のシステムは、「高卒」という形式を確保するために、膨大な社会的無駄を甘受している状態である。高校進学者がほぼ100%だからこそ、進学できない、もしくは退学した生徒がマイナスの価値を帯びるのであり、選択がニュートラルに認められていれば、高校に行かなかった人も、それぞれの進んだ分野でどのような価値を身に付けたかで評価されるようになるはずだ。

 もともと発達障害の一部である「文字」の問題について書き始めた文章が、学校のあり方についての話になってしまった。だが、これは、それほどまでに学校と文字の結びつきが深いということである。発達障害が、社会との関係性の中で苦しみを生み出すものだとすれば、単に障害を持つ人にどのように接するかではなく、社会構造の問題として考えることを避けては通れない。おそらく、「文字を苦手」とする人は相当な数に上るのであって、これを現在の社会の枠組みの中で、無理に適応を目指させることはバカげたことに思える。そういうことをするから、「文字が苦手」がマイナスの価値を帯びてしまうのである。「文字」はしょせん「文字」。人間が知恵によって獲得した立派な文化であるには違いないけれど、それが人間の生活を支配して人を苦しめるようになってしまえば、「経済」とか「豊かさ」とか言いながら、人々を競争に駆り立て、それによって人が苦しむという構図と同じである。(終わり)