部活動手当廃止論(?)



 8月11日、宮城野高校で公務を終えると、私はそのまま県庁に向かった。お盆の直前だというのに、組合と県との交渉が行われることになっていたからである。問題となった県からの提案は、「障害児学校(支援学校)教員の手当を削減し、それを原資として、部活動手当等の改善を行う」というものであった。県が独自に言い出したことではなく、国(文部科学省)からの指示である。

 国は、メリハリのある給与体系、ということを最近よく言う。頑張っていない人の給料を減らし、頑張っている人の給料を増やす、それによって単純・平等な給与体系を崩し、能力や労働量に見合った給与を実現させる、ということである。なるほどそれはいい、と一瞬思うが、教員という職の評価のしにくさ(私は絶対に不可能だと思う)を考えると、いじればいじるほど矛盾が大きくなるので、やめるに越したことがない。

 今回の提案で、県は、10月から、現在、障害児学校に勤務する教員の給与に1.25%加算されている「調整額」を1%とし(年に約45000円の減)、休日に4時間以上の部活動を行った場合に支給される「手当」を600円引き上げて1日3000円とする、とした(これ以外の手当についても改善提案はあったが、支給される場面が少ないのであまり問題にならない)。

 組合の主張は、当然「否」である。障害児は急増していて、学校の狭隘化が新聞でたびたび話題となり、教員も学校によっては30%が講師、障害児学校教員の専門性への県当局の認識が低いため、普通の学校以上に命を預かる職場であるにも関わらず、小中高校と同列で人事異動が行われ、毎年10人以上の未経験教員が着任するという厳しい環境の中で、もともと給与の8%支給されていた手当が、しばらく前に14000円の定額(実質的に半減以下)に引き下げられた上、更に引き下げというのは理解できない。部活動手当の増額は当然だ。3000円でも、あり得ない異常な額だ。そもそも、片方を減らして片方を増やす、という発想が間違い。減らされた方は、「頑張っていない教員」と評価されたと受け止める。県のやり方は、教員を分断するものだ。昨今の学校の厳しい状況を考えれば、教育予算の中だけでお金を左右に動かし、それで合理的な賃金を実現させるのには無理がある。・・・と、こんな理屈付け、である。

 交渉は17時に始まり、途中、双方の作戦会議や別室での予備交渉による長大な休憩を挟みながら、県は方針を変えるつもりはないが、とりあえず10月実施は見送り、お盆明けに再交渉を行うという限りなく「決裂」に近い「継続交渉」を結論として、22時15分(!!)にひとまず終了した。

 私は何も言わず、ヤジも飛ばさずに黙って聞いていた。組合の主張に文句がない、あえて県に言いたいほどのことがない、というのでは必ずしもない。障害児学校の教員が大変なのは絶対にその通りだが、普通の学校にも大変な人はたくさんいて、果たして、障害児学校だけに特別な割り増しを付ける必要があるのかどうかは分からない。県全体の予算枠が決まっている中、平職員同士でどこを減らしてどこを増やすという議論ができるわけがない。労働組合の限界というものだな、と思う。しかしながら、国のやり方には、何ら哲学を持たずに財界のやり方を真似る(県が何ら哲学を持たずに国の指示に従うのは根っこが同じ)という軽薄さを感じるし、パフォーマンス的な臭いも強く漂っていて気にくわない。そんないろいろな思いが胸中で渦巻き、明確な態度を取れなかったわけだ。

 しかし、私が特に胡散臭くまずいと思っているのは、意外に思われるかも知れないが、今回、県が部活動手当の増額を提示してきた点である。

 休日に1日4時間以上で2400円という部活動手当が、人を馬鹿にしているのは明らかだ。県もその異常さは認識している。だから、今回600円増額を提示してきたわけだし、今後も部活動手当については改善提案があると思う(今回の交渉の中でも、4時間未満の指導について、時間割で支給できるように検討したいとの改善提案有り)。ただし、県全体の予算枠どころか、教育予算を増やす気はないので、そのためのお金は、今回のように給与の別の所を減らす形で調達しようとするだろう。それは多分無理を伴う。だが、更に重要なのは、部活動が教員の職務であるということが、部活動手当の改善によって既成事実化されていってしまう、という点だ。以前から言うとおり(→こちら)、私は部活動が「仕事」であることを問題だと考えているからだ。

 部活動は日本の学校が本末転倒していることの根源である。部活動は生徒の生活指導に欠くべからざるものだと言うからこそ、学校が教科学習以外のあらゆるものを背負い込むことになっているのだし、それによって全ては学校に任せればいい、という親と社会の甘えを生み、家庭教育・社会教育が蔑ろにされる状態を作り出している。授業の確保、授業が一番大事、と言いながら教員を締め付ける一方で、部活による「公欠」は最優先で野放し。部活動をするために教員になったというのが本末転倒は言うまでもないとして、部活の方が授業よりも楽しいからそちらにエネルギーを費やすようになったというのも、勉強する気のない生徒ばかりが多く授業にやり甲斐を感じないが、それを解決させるのは難しいし、自分自身が専門的な教科の勉強をするのが面倒くさいので、問題を棚上げして部活に活路を見出している(=逃げている)という事例が少なくないだろう。そして、実績がはっきりと目に見える部活動は、偉くなりたい人にとっても魅力的だ。

 つまり、部活動手当の財源をどのように確保するかという話の中では、そもそも教員の職務として部活動が存在していいのか、教員とはいったい何をする人なのか(学校は本来どうあるべきなのか)、という根っこの議論こそしなければならないと思っているのだ。そのチャンスであるべきだ、と思っているのだ。OECDによって明らかにされた日本の教員の突出した長時間勤務(→参考)も、部活動を抜きにして絶対に改善なんかされない。だから、部活動手当の改善を重ねて適正化(時給2000円くらい?)してしまえば、逆に部活動という制度上曖昧な存在が固定化されかねないので、むしろゼロにして、教員全体にもっと問題意識を持ってもらった方が余程いいと私は考えている。

 部活動のあり方については、組合内部でも合意などできないから、私も外部の人たち(この場合、県のお役人たち)がいる中では、そんな問題提起が出来ない。仮面をかぶって交渉の場で愉快でもない話を聞きながらボヤッとしているのは、なんだか時間の無駄だと思う。次の交渉どうしようかなぁ・・・? 


(注)上の文章の用語の使い方には、厳密に言えば間違いの箇所が多々あるが、一般向けの文章であることを考慮し、分かりやすさを優先させた。