食糧自給率を高めるには・・・



 8月10日の『河北新報』社説は、食糧自給率の問題を取り上げていた。これは温暖化(含エネルギー資源問題)とともに、かねてより私が最も重要視し、あちらこちらで述べてきた問題である。社説には大きな問題があったので、一言書いておこうと思っていたら、今日の『朝日新聞』社説が、同じく食糧自給率の問題を取り上げていた。こちらの方が相当マシである。重要な違いは、日本の食糧自給率の低さを問題にしつつ、その解決へ向けて農政だけを問題にするか(河北)、それ以外のことも問題にするか(朝日)である。

 さて、最近発表された昨年度の食糧自給率も、過去3年間と同じく、カロリーベースで39%だったそうである。政府は2020年度に50%まで向上させることを目標としているそうだが、農林水産省の審議会はその目標について、「過大な設定(=無理)」との認識で一致しているそうだ。「食べる」という生き物としての基本の部分で、外国に60%を頼らなければならない日本の社会を異常だと思う。安全保障上、危険なことだとも思う。集団的自衛権だの、景気の回復よりも、こちらの方が優先事項としての度合いは高い。

 先日、中国を旅行していて、中国人が食堂で注文した料理を大量に食べ残すことについて、改めて驚いた。圧倒された、という表現がふさわしいほどだ。すっかり平らげることは「不足」を意味する、だから食べ残すことこそが「満足」を表していると考える、それが中国の文化だ、という話は聞いたことがあるが、真偽は知らない。中国も、半世紀あまり前は「食えない」社会だった。それを見ながら、日本人の食べ残しも、実は中国人ほど露骨ではないが、深刻であることを思い浮かべていた。

 昨年11月25日、NHKの「クローズアップ現代」でも、食べることができるのに、食べずに捨ててしまうもの(食品ロス)の多さを取り上げていたが、それに先立って、昨年8月13日の『朝日新聞』は「食卓のタネあかし」という連載で、同じく「食品ロス」の問題を取り上げていた。それによれば、「安全」を重要視しすぎるあまり生じる「食品ロス」が、推計で年間500〜800万トンに上る。もう少しだけ詳しく書くと、家庭における食べ残しなどが200〜400万トン、食品事業者における規格外品や返品などでまだ食べられる物が300〜400万トンだそうである。参考までに、日本の米の収穫量は850万トンなので、少なくともその半分以上、見方によってはほぼそれに匹敵する可食品が廃棄されているわけだ。

 食糧自給率が39%だと言えば、当然、残り61%分を増産しなければ、と考えるわけだが、こうなると少し違う。現実的ではないかも知れないが、食品ロスをゼロにできれば、それだけで、食糧自給率は80%を超えそうである。逆に、残り60%を、増産だけで賄おうと思えば、増産分からまた「食品ロス」が発生するわけだから、120%、いや、150%分以上の増産が必要となるだろう。

 我が家でも、消費期限切れ、賞味期限切れの食品がいろいろな所から発見されるのは日常茶飯事だ。それでも、缶詰や乾燥食品の類いなら、消費期限を1年や2年過ぎてもまったく問題ない。ヨーグルトや納豆などの発酵食品も、賞味期限を過ぎて1ヶ月くらいなら何の問題も発生しない。基本的に、どんなものでも、期限の倍までは大丈夫だ。生がダメでも、加熱すれば食べられるものもある。食べられるかどうかは、表示されている期限ではなく、私の五感で判断する。こうすると、どうしても捨てなければならないものはごくわずかだ。食卓に出したものの食べ残しが「禁」であることは言うまでもない。

 ところが、日本には「3分の1ルール」が存在する。製造から賞味期限までの最初の3分の1で小売店に届け、次の3分の1で消費者に渡り、残りの3分の1で消費者が食べる、ということだ。つまり、最初の3分の1の間に小売店に納品できなければ処分(廃棄)、次の3分の1で客に買ってもらえなければ処分、こうして積み重なった「食品ロス」だけで300〜400万トンだ。家庭内の努力だけではどうにもならない。

 犯罪だな、と思う。そもそも、国内で十分な食糧を供給できていないということは、食糧が非常に貴重なものだということなのに、それを捨てるというのは、食糧の価値が金銭で置き換えられているからではなかろうか。「捨てたって、しょせん100円だ」というような感覚があるのではないか。いつぞや、「赤福」が、もったいないといって餡の再使用をしていたことが発覚し、大きな社会問題となったが、「もったいない」というのが経営上の問題ならともかく、食べ物の価値を直視した結果であるとすれば、はなはだ健全な意識であると言える。

 日本の農地を拡大することは難しい。農業従事者を増やすことも難しい。現状を見ていると、農法を改善しようとすれば燃やす石油が増える。だから、そんなことをするよりも、国内で生産された食糧を、無駄なく食べ尽くすことをまず第一に考えるべきなのだ。無駄に豊かで潔癖な現在の日本社会において、この点の意識改革をすることは難しいことなのかも知れないが、危機感を煽るための宣伝もまだまだ不足だ。

 と書いていて、多分、エネルギー問題もよく似た面があるのだろう、と思う。原発が止まったとなれば、代わりにどのようにして発電するか、ということが問題になるが、無駄な電力消費を徹底的になくせば、震災前の原発依存分くらいの電力はすぐに捻出できるような気がする。石油という貴重この上ない資源の価値が金銭に置き換えられてしまうから、その消費が極めて安易なものとなるのだ。もっとも、こちらは、食品と違って、何を「無駄」と考えるかに考え方の違いが発生し、ある種の権力闘争になってしまうので、食品の問題よりもはるかに面倒なのだけれど・・・。