ガイドブックにない桂林(1)



 桂林に行った、と言うと、「あっ、例の山水画の風景ね?」と必ず言われる。「家族も置いて暢気に・・・」とか、「うらやましい」とか言われたり、そんな顔をされたりもする。仕方のないことだ、と思う。日本で出ているいかなるガイドブックにも、桂林と言えば、漓江の川下りと両江四湖(市内にある二つの川と四つの湖)、廬笛岩(鍾乳洞)、七星公園、象鼻山、靖江王府(明代の王城)くらいしか載っていない。基本的には自然の美しさを愛でるための場所であって、歴史と関わるのは靖江王府だけ、と言ってよい。

 ところが、桂林というのは、中国の現代史、特に1936〜44年において、非常に特殊で重要な街なのである。このことについて、私はかつて「1940年の重慶・桂林・延安」(『集刊 東洋学』101号、2009年)という論文を書いたことがある。論文とは言っても、概説に近いものでしかないが、それでも、日本で現代桂林の特殊性を取り上げた数少ない貴重な文章である。中国においては、1940年前後の桂林に関する資料が1960年代くらいから収集され始め、文化大革命が終わった後、1980年代から続々と出版されて、多くの人に知られるようになった。我が家にある桂林現代史関係の本を数えてみたら、ガイドブックを除いて15冊、他に雑誌論文が数本あった。残念ながら全て中国語文献なので、ここに紹介はしない。

 漓江を目当てに桂林を訪れる旅行者にしてみれば、どうでもいい話かも知れないが、あの中国を代表する大観光都市に、実はこんな歴史があったのだ、ということを知って興味深く思う人もいるかも知れない。せっかくの機会だし、漓江下りに行っただけだと思われるのも癪なので、少しこの場でも紹介しておこうと思う。

 まず最初に、桂林についての話を理解するために、当時の中国の状況を、ごく簡単におさらいしておこう。

 日本の中国侵略は日清戦争に端を発するが、1930年過ぎからより一層露骨で本格的なものになっていた。満州を植民地化すると、中国本土をも南へ内陸へと侵攻し、1937年7月には日中戦争が始まる。12月に首都は南京から重慶へ、長江(揚子江)に沿って奥地へと移動を余儀なくされた。しかし、南京の全機能が一時に重慶に移動したわけではなく、軍を中心とする多くの政府機関は、その中間に位置する武漢でひとまず遡上を停止し、日本軍の西進を阻止すべく活動を続けた。

 ところで、中国対日本という関係が成り立つなら事は単純なのだが、中国国内には国民党(資本主義。代表は蒋介石)と共産党共産主義。代表は毛沢東)という別の対立関係があって、事を複雑にしていた。国民党は階級的観点から、共産党を真の敵として、日本に対して妥協的な姿勢を取り、共産党は中国を守るために思想の違いを超えて団結・抗日することを重要視していた。そのため、愛国的な人々は国民党に不満を、共産党に共感を抱くことになった。1936年12月、国民党の将軍である張学良らが蒋介石を捕らえ、共産党に引き渡すという事件が起こった(西安事件)。共産党は抗日戦争に勝つまでは国民党と共産党が共同するという条件の下に、蒋介石を釈放した。こうして成立したのが第2次国共合作である。

 武漢で踏み止まっていた人々は、1938年10月末に武漢が日本軍の侵攻によって陥落するまで、そこで活動を続けたが、その政府機関のひとつに、国民党の陳誠を部長とし、共産党の地下党員・郭沫若を庁長とする「国民党軍事委員会政治部第三庁」(以下「第三庁」と略)という宣伝機関があった(1938年4月設立)。抗日宣伝に演劇、文学、音楽、美術といったものを使う都合で、第2次国共合作を象徴するこの機関には、多くの左翼的文化人が集まっていた。

 さて、話を本題の桂林に移す。

 桂林は、1936年から左翼的な文化人(学者・芸術家・作家など)が集まり始め、1938年末に急増、1941年には国民党と共産党の関係悪化に伴って離散を始めるが、その後、再び桂林に戻る人も多く、1944年11月に日本軍の攻撃によって壊滅するまで、国統区(国民党支配地域)の中で最も共産党が自由に動ける場所として政治的に重要な役割を果たした。文化人は家族を伴うし、集まるのが文化人だけということもない。その結果、1936年には人口わずか7万人くらいだった桂林が、1939年には60万人(データは多数あって一定しない。左は概数)、集まった著名な文化人は1000人にもなった。

 いきさつを後回しにして、なぜ、このような特異な現象が起きたかという理由を、まず書いておこう。

1)新桂系軍閥(白崇禧、李宗仁、黄旭初など)が、蒋介石と対抗する必要から、抗日に理解がある風を装い、共産党に寛容であった。

2)地理的条件に恵まれていた。すなわち、水路、空路、陸路ともに便利で、武漢、長沙、重慶、広州、貴陽などの都市と行き来しやすく、香港を通して海外との連絡も比較的容易であった。

3)林立する岩峰に鍾乳洞が発達し、天然の防空壕として利用できた。

4)紙の大産地が近くにあり、印刷業が発達していた。

 新桂系軍閥というのは、必ずしも古くからの豪族ではない。桂林界隈で生まれた白、李、黄といった人々が、軍の幹部養成学校と軍の中で頭角を現し、1920年頃から有力な軍閥として広西省一帯を支配するようになった。たいへん実力のある人たちがひとつの地域にまとまって現れたので、蒋介石が自分の地位を脅かす存在として危険視し、圧力をかけた。新桂系軍閥はその圧力に耐えて、生き残る道を模索する。彼らは、蒋介石共産党との闘争を重視して抗日に消極的であり、立場の左右を問わず、多くの中国人がそのことに不満を持っていることに目を付け、1936年6月1日に広東軍閥の陳済棠と手を組んで、抗日のために北上するとの宣言を出した(両広事変=6・1運動)。指導部が妥協を重ねたり、部下が買収されたりして、結果としてこの動きは茶番に終わってしまうのだが、彼らが抗日を目指しているという評判が立つことによって、進歩的文化人が集まるという思わぬ効果があり、更に、彼らを一定程度自由に活動させておくことで、新桂系軍閥は政治的に「開明」だとの評価が高まり、抗日群衆をも味方に付けることで勢力を強めることができたのである。加えて、当時の中国共産党南方局長・周恩来のきめ細かい工作があり、多少の偶然も重なった結果として、共産党は1938年11月、桂林に李克農を所長とする事務所(八路軍桂林弁事処=以下「弁事処」と略)を開設することに成功した。これが、ちょうど武漢陥落と同じ時期に当たっていた。

 武漢陥落に際し、人々が避難先=新しい活動場所として考えたのは主に国民党の首都・重慶共産党の首都・延安、そして緩衝地帯とも言うべき桂林であった。この中で、武漢からの距離が最も近いのは桂林である。文化人の急激な流入に伴って、桂林には雨後の竹の子のように数多くの文化団体(出版社を含む)が誕生することになった。(続く)


(注)桂林に移動してくる人として、なぜ「文化人」ばかりが問題になるかというと、彼らは土地との結びつきがないので身軽で、左翼的で抗日意識が高かった上、言論など、表現の世界で活動しているため、影響力が大きく、目立ったからであろう。