中国共産党の変質・・・劉暁波氏の死から(3)

 構成員約5000人の紅四軍は、少しずつ生まれてきた他の紅軍部隊と協力し合いながら、江西省を中心に革命根拠地を作っていく。「鉄砲が政権を作る。」正にその言葉通りに、軍事力によって共産党が支配する地域は拡大したのである。1931年11月には、中華ソヴィエト共和国の建国を宣言。一時的な革命根拠地は、安定した共産主義国家へと発展していくかに見える。1933年には、上海にいた中共中央のメンバーが、江西省へと移動してきた。熾烈な弾圧に、活動の限界を感じたためである。ここにおいて、中共にとって農村がフィールドの中心となった。
 もちろん、国民党は共産党の中央が山間部の農村地帯になったからといって、その存在を黙認するようになったわけではなかった。繰り返し大量の火力を投じて掃共作戦を展開し、共産党を壊滅に追い込もうと努力をしたのである。実際、共産党はその圧力に耐えられず、1934年10月に江西省の根拠地を半ば放棄して、劉子丹らが組織していた中国北部・黄土高原地帯の組織に合流すべく長征に出発した。国民党軍の攻撃をかわしながら中国西部を大きく迂回し、約1年で12,500キロを踏破し、共産党軍は陝北にたどり着く。出発時に10万人前後(実数不明)だった勢力は、相次ぐ戦闘と気象条件、病気、飢餓などにより、到着時に数千人まで減っていた。
 この間に何度もの会議が開かれ、路線が選択され、権力の所在が変わり、強化された。しかし、路線選択上の争いというのは、共産党が生き延びるための方策を求めての争いであって、パワー・ゲーム的ないわゆる権力闘争とは少し違うように思う。権力は権力のためにあるのでも、安逸な生活のためにあるのでもなく、全体的な生存への責任として存在したのである。
 1938年秋、第6期第6回中央委員全体会議(6期6中全会)が延安で開かれた。 毛沢東はその時の政治報告(「新段階論」)において、「個人は組織に服従し、少数は多数に服従し、下級は上級に服従し、全党は中央に服従する」という有名な組織論を述べた。「少数は多数に服従」するということに、現在の選挙のようなシステムを想像してはいけない。それはないのである。共産党民主集中制を取っていることになっている。中共の指導者もそのように言う。民主集中制とは、本来、指導者を民主的に選んだ上で、選ばれた指導者には絶対に従うシステムである。しかし、実際に民主的な選挙が行われたことはない。これを共産党の強権的な体質の表れと見るのは必ずしも正しくない。なぜなら、国民党と対立していて弾圧され、地下党員も多い上に、日本軍が攻め込んできている厳しく流動的な社会状況の中で、全国の党員を有権者として選挙を実施することなど不可能だったからである。鉄砲で政権が獲得され、維持されている状況下では、即断即決が求められることも多く、専制的な寡頭政治でなければ、自分たちの組織を維持できないのは確かであった。抗日、共産主義革命の実現という目標で一致していたこともあり、上の毛沢東の言葉から私たちが感じるような息苦しさは、おそらく当時の解放区にはまだない。スノーが描いた理想的人間世界としての共産党は、共産党が長征を終えた直後から、およそこの時期までのことである。スノーの著作(例えば『中国の赤い星』)を読む時、夢と希望に満ちた、暖かい人間愛の世界を感じずにはいられない。
 その共産党において、様相が急変し、少し雰囲気の違う大規模な思想統制が行われたのは、1941年から1942年にかけてであった。1941年9〜10月、現在「9月会議」と言われる中央政治局拡大会議が、その前触れだった。そして、1942年2月1日、毛が中央党校で行った「整頓党的作風」という演説から「整風運動」が全面的に開始される。標的になったのは第1に王明である。整風運動は、毛の演説によれば、主観主義と宗派主義の否定であるが、未発表に終わった9月会議の決議草案で、王明を主観主義、宗派主義であると否定していることから、整風運動の標的が王明であることは確かめられる。1941年夏頃から、事務方の実質的トップを長く務めてきた張聞天に対する毛の態度も、非常に辛辣になってゆく。
 なぜ、整風運動が「少し雰囲気の違う」思想統制であったかというと、この時点で王明を失脚させる理由が見当たらないからである。まして、「仏様」と呼ばれ、毛沢東自身も「権力欲がない」と評価してきた温厚実直の極み、張聞天に関しては、批判の口実さえないというのが実情であった。
 王明は長くモスクワに滞在し、コミンテルンの覚えもめでたかった。1929年に帰国した王明は、コミンテルンの威光を背負い、一時は共産党を代表する立場にも立った。国民党とどのように抗日統一戦線を作るかといった問題で、毛と考え方の違いがあり、確かに対立はしていたが、1938年秋、コミンテルンが毛の主導権を認め、毛が党を指導するように勧告してからは、王明自身も劣勢を悟って、毛に対して向こうを張ることはなくなった。1940年5月には沢東幹部学校開学式典で「毛沢東に学べ」という演説を行い、毛に媚びを売るような状況さえ生じた。それは面従腹背であったのかどうか・・・?ただ、仮に王明が政権への野心を捨てていなかったとしても、コミンテルン中共に対する力が低下し、周囲に王明を支えようとする勢力が存在しなかったことを思うと、毛が政敵としてわざわざ王を排斥しなければならないというような状況はなかったように見える。それでも、毛は王を公に批判し、王明の『回想録』によれば、毒殺さえしようとしたという。
 張聞天については、1938年、毛が江青との結婚を言い出した時、かつて上海で女優をしていて、男関係についても悪い噂の多かった江青ファーストレディーになることに反対した多くの党員を代表し、穏やかな諫言をしたことに対する怨みが尾を引いていたのだ、と言われている。公の場における批判は、ほとんど言いがかりとでも言うべきものであった。
 9月会議では、まず最初に毛が、党内にまだ主観主義者、宗派主義者がいることを指摘し、多くの指導者たちに自己批判を求めた。張聞天を始め指導者たちが次々と自己批判する中で、王明だけは自己批判に応ぜず、途中から会議を欠席するようになった。だからこそ、毛は整風運動を起こしたのかも知れない。王明が頑なに自己批判を拒んだ理由は明らかでない。(続く)。