中国共産党の変質・・・劉暁波氏の死から(6)

 羅鋼と王培元は次のように言う。

「延安の文芸座談会においては、激しい論争が出現したとはいえ、議論する双方の態度は、基本的に対等平等であった。後の会議になると、延安文芸座談会のように言いたいことを言い、思想上の論戦を展開し、民主的雰囲気に満ちた場面はほとんど稀のようである。」

 羅・王が「対等平等」と言うのは、あくまでも毛による総括の前までである。毛沢東は、文芸工作者に文芸のあり方を自由に論じさせておいて、最後は厳しく締めた。しかもそれは、幹部の特権的生活批判を問題のすり替えによって封じる、というものであった。文芸工作者たちが何を言うかに関係なく、毛が答えを押しつけた。しかも、その答えはおそらくみんなが納得して受け入れられるものではなかった。その結果、議論の火は消えた。みんなが何を思おうと、権限を持つ人間の意見だけが通ることを知った時、人々はまじめに考えることを止めるのである。毛の絶対性は高まり、言論の自由は実質的に失われた。
 文芸工作者は指導者の生活など見る必要はない。労・農・兵の方を向き、彼らとともに向上を目指すべきである。これは「言うは易く、行うは難き」ことだろう。西洋を見ても、ごく少数の天才が独創的な作品を作り、一部の人がその価値に気付き、やがて多くの人が目を見開かされていく、というのが芸術発展の理法であった。最初から大衆の顔色をうかがい、大衆が喜ぶようなものを作ろうとすれば、芸術の質的向上は難しい。文芸座談会は、批判的精神においても、芸術の質においても、愚民化政策であったと言えるだろう。
 しかし、以上を見て、直ちに毛のやり方を批判することはよくないかも知れない。戦争の時代において、権力の集中は必要である。仲間内で争っていたのでは、外敵に抗することは出来ない。まして、当時の共産党のような弱小組織においては尚更である。
 毛沢東が自分の特権を失うことを恐れて文芸工作者を批判したのか、戦争遂行上の必要性を信じてしたのかは分からない。だが、彼が批判を封じ、絶対的な権力を手中にすることは、当時の状況下ではどうしても必要なことであった。毛の対応によってこそ、共産党はその後の戦争を戦い抜き、建国を実現させたとも言える。
 1945年8月に日中戦争が、1949年10月に解放戦争(国民党との内戦)が終わり、中華人民共和国が成立して新しい国作りが始まった。この時、全ての国民に食うことは保障され、自由は回復されるべきであったが、そうはならなかった。

 1956年 百家斉放・百家争鳴 → 大躍進運動
 1962年 毛沢東自己批判階級闘争論 → 文化大革命

 建国後も、言論の自由を回復させようとするかに見えて、人々が勝手なことを言い出した瞬間、一気に締め付けを強めるという、「魯芸の正規化・専門化に象徴される自由化→文芸座談会」と同じような動きが繰り返されることになった。そして、全体として、党が全てをコントロールし、見境のない自由化は決してしない、権力への批判は絶対に許さないという姿勢は貫かれている。その原点が、文芸座談会であったようだ。
 突然ではあるが、話をタイトルに戻す。劉暁波氏は極めて穏健な平和主義者であったにも関わらず、民主主義者であったために、厳しい言論弾圧の中で死んだ。その死も、文芸座談会で用意されたものである。
 さて、共産党政権は必ず専制的になるのだろうか?今回の連載の出発点に立ち返ってみよう。私の答えは「なる」だ。
 人間はいろいろな点で、生まれつき不平等である。能力も、家庭環境も、体質も、だ。従って、自然に任せれば、強い者はますます強く、弱い者はますます弱くなる。それが極端なところまで暴走した時、弱者の権利を保障するために共産主義が生まれる。
 そこでは、能力の高い人間の活動を、全体の共存のために制限する必要がある。有能な人々が制限の必要性をよく理解し、自分の能力で得ることが可能なものの多くを自ら投げ捨てて、低水準な生活に甘んじてくれれば文句はない。しかし、普通は不満を持つ。それを押しとどめ、共産主義社会を実現させるためには強大な権力が必要だ。
 権力を握った人々が、そのような権力発生のプロセスと役割とをよくわきまえ、自らも全体の奉仕者であることを忘れずにいてくれればよい。しかし、人間の性として、特権を一度持つとその上にあぐらをかく。それを批判し、是正するための選挙のようなシステムはない。人間の本性に逆らったことをするために権力が必要だが、権力は人間性に従って腐るという二律背反である。そうして共産党の中央はどうしても腐る。
 腐った政権に対する不満は、経済成長によって封じ込めようとされた。社会主義国家の資本主義化である。一方、資本主義社会は、かつて社会主義が主張していた完全雇用社会保障などの政策を実現させた。多くの資本主義国家が民主主義を採用し、主権者がそれを求めたからである。経済発展と社会保障という点で両者が接近し、ある意味で差異を失った時、選挙による権力の浄化というシステムを持たない共産党のマイナスが、殊更に救いのないものとして見えてくる。(完)