中国共産党の変質・・・劉暁波氏の死から(4)

 1942年2月、毛沢東は王明を排斥するために「整風運動」を開始する。前回(→こちら)書いたとおり、王明を名指しで批判するというよりは、主観主義と宗派主義という得体の知れない「主義」を攻撃するという間接的な方法であった。毛は、彼自身が誰のどこが悪いと言うのではなく、指導者たちに自己批判を求めた。
 この時、予期しないことが起こった。
 当時、中共中央の所在地、共産党中国の実質的な首都であった陝西省延安において、文芸家(作家・芸術家・文化人)は大きく二つのグループに分かれていた。一つは魯迅芸術文学院(魯芸)という芸術大学を拠点とするグループで、もう一つは中華全国文芸界抗敵協会延安分会(文抗)という組織を拠点とするグループであった。その違いをごく簡単に言うなら、前者は自分たちのすばらしい前途を称えること、後者は現実に存在する問題点を指摘することを作品の主題とする傾向があった、ということである。前者は「歌頌派」、後者は「暴露派」と呼ばれる。
 自己批判を求める整風運動が、後者と親和的であることは容易に分かる。つまり、毛が整風運動=自己批判運動を提起したことで、文抗系の作家たちは勢い付いた。問題点を指摘することは、彼らの得意とするところだったのである。
 3月に入ると、文抗系の作家たちが続々と問題作を発表するようになった。最も有名なのは、王実味「野百合の花」と丁玲「三八節に感あり」である。王実味は張聞天が院長を務める中央研究院の研究員、丁玲は文抗の代表であった。続いて、中央研究院は『矢と的』という壁新聞を貼り出すようになった。これらの内容が、毛の逆鱗に触れたのである。ごく簡単に言えば、それらの作品は、毛沢東を始めとする党の幹部の特権的な生活を批判するものであった。
 加えて、同じ時期に、中央研究院で一つの出来事があった。整風運動では、各組織ごとに整風検査工作委員会を作り、その組織を中心として運動を進めることになっていた。中央研究院で整風運動の中心にいたのは李維漢であるが、李は院長、秘書長、各室の主任がその構成員であるべきだと考えていた。ところが、王実味が強硬に反対し、検査委員は中央研究院の全メンバーによる民主的な選挙で選ぶべきだと主張した。最終的に、選挙をするかどうか多数決で決めることになり、4分の3の賛成で選挙と決まった。そして選挙の結果、一般からの当選者が多数に上り、指導部から選ばれた者は少数だった。これによって指導部の意見は通りにくくなり、会議をすれば論争となって、幹部たちは非常に活動がしにくくなった。
 ここで問題になっているのは、民主主義をも含む「平等」の問題である。毛沢東は、3月31日の会議(『解放日報』紙面改革座談会)で次のように言った。

「このごろ非常に多くの者が絶対平均を要求しているが、これは一種の幻想であり、実現不可能なことだ。我々の活動にはたくさんの欠点があり、改革をすべきではあるが、もしも絶対平均を要求するなら、現在のみならず、将来においてもそれは不可能である。小資産階級の空想的社会主義思想は、我々は拒絶しなければならない。」

 毛は、これら一連の出来事に脅威を感じる。そして、整風運動がいまだ途につかぬうちに、半ばそれを放棄して、新たに文芸工作者を集めて座談会を開催し、言論のあり方そのものに対して締め付けを強化することにしたのである。
 文芸座談会について書かれたおびただしい文章の中で、羅鋼と王培元による3つの論文は出色のものである。羅と王はその中で、絶対平均主義(=平等)に目を付けた毛沢東について、次のように言っている。

毛沢東はまずいわゆる『絶対平均主義』を批判した。なぜなら彼は鋭敏にも、そのほかの『誤った観点』と比べこの考え方の煽動性と破壊性が最も大きく、それが批判しているのは個別の具体的現象ではなくて、矛盾は直接指導者全体に、体制自身に向けられていることを察知したからであろう。」

 絶対平均主義は、前回書いたような共産党の秩序論をも脅かす。毛沢東は、さほど差し迫った脅威とは言えない王明をひとまず放置した上で、整風運動の推進主体を選挙で選んではならないという指示を出し、5月に、文芸のあり方に関する座談会(意見交換会)を3回開いた。この時、党の文芸政策の責任者でもあった張聞天は、既に延安にいない。毛の圧力を感じ、自分自身の問題に謙虚に目を向けた結果として、張は1941年1月から、1年2ヶ月に及ぶ農村調査に出かけてしまったのである。(続く)