中国共産党の変質・・・劉暁波氏の死から(2)

 1921年の結党から数年間、共産党は正に右往左往の状態だった。それが、中国共産党として独自の歩みを始めていると感じられるようになるのは、1928年からではないか、と思う。
 1927年の8月に南昌蜂起、9月に秋収暴動という2度の武装蜂起で失敗した残存部隊が合流し、紅四軍が成立したからである。紅四軍とは言っても、共産党に軍が4つあったわけではない。南昌蜂起で敗走した朱徳率いる軍隊が、もともと第1次国共分裂当時の中国国民革命軍第四軍だったから、「四軍」と名付けられたのである。紅四軍の政治委員(士気の向上、対外宣伝などを受け持つ)は毛沢東、軍長(実際の軍事行動の司令官)は朱徳だった。この二人がやがて中国共産党の主席、総司令官(国防部長)となる。つまり、紅四軍の政治的指導者と軍事的指導者が、そのまま抗日戦争期、いや中華人民共和国の政治的指導者、軍事的指導者になってゆくのである。紅四軍がそのまま拡大したのが中国共産党中共)であり、中華人民共和国であると言ってよい。
 当時、中国共産党コミンテルン共産党の国際組織)から強い指導と支援とを受けていた。そのコミンテルンの思想は、都市に住む労働者こそが共産主義革命の主体だというものであり、農民の持つ可能性は考えられていなかった。
 共産党に入党するためには紹介人(保証人)が必要である。必要な紹介人の数は、政治的信頼度によって決められているが、例えば1928年第6次党大会で決められた規則によると、工場労働者が1人でいいのに対して、農民は2人を必要とする。言うまでもなく、紹介人の数が少ない方が党として信頼できる存在である。この後10年をかけ、1939年になってようやく労働者と農民の紹介人の数は等しくなる。農民の役割が評価され、党の中で存在感を増すために、それだけの時間が必要だったということである。それこそが中国共産党の独自色であった。
 紅四軍が、もともと革命蜂起に失敗した敗残兵の集団だったこともあり、彼らは農村での活動を余儀なくされた。コミンテルンは評価していなかったが、農村にも小作人という被搾取階級がたくさんいる。やむを得ず農村に活路を求めたとは言っても、そこは可能性の宝庫であった。
 「鉄砲が政権を作る」という毛沢東の有名な言葉がある。政権は軍事力によってのみ手に入るということだ。これを共産党の暴力革命思想と言うのは簡単である。だが、民主的な選挙という政権選択・維持のシステムがない中で、新しい思想に基づく統治体制を作るために、軍事力という以外の選択肢はなかったのである。
 紅四軍は1929年11〜12月、福建省西部の古田で「第9回党員代表大会」を開いた。中共の党員代表大会ではない。あくまでも紅四軍の、である。出席者は120名。紅四軍内の党員の約1割であった。会議の終了時に発表された「決議」を書いたのは毛沢東だ。この「決議」は、中共の歴史における最重要文献のひとつである。なぜなら、「紅軍が農村根拠地で革命軍として自立しうる道を開いた記念碑的文献」であり、内容としては「中国人民解放軍建軍の基本原則」であると評されるとおり、この後の共産党軍、あるいは共産党政治の原則をほぼ網羅しているからである。
 「決議」は全部で九つの章からなる。それは次の通りである。
1,党内の間違った思想を是正することについて
2,党の組織問題
3,党内教育の問題
4,紅軍の宣伝工作問題
5,兵士の政治訓練の問題
6,青年兵士の特別教育
7,体刑廃止の問題
8,負傷兵優遇の問題
9,紅軍内の軍事系統と政治系統の関係の問題
 大切なのは第1章である。毛はここで「単純軍事観点(軍事第一主義)」「極端な民主化」「非組織的な観点」「絶対平均主義」「主観主義」「個人主義」「流賊的な思想」「盲動主義の名残」という8つの問題を指摘する。これらが何を意味するかは、いずれ改めて考えることにしよう。(続く)