中国共産党の変質・・・劉暁波氏の死から(1)

 今月13日に、中国のノーベル賞作家で民主活動家の劉暁波氏が亡くなった。その時、少し触れておこうかな、と思ったのだが、何を書きたいのか自分でも分からない状況だったので止めた。今日、朝日新聞の「MONDAY解説」という欄の、中国総局長・古谷浩一氏による「民主化の希望 消し去る中国」という大きな記事を読んで、やっぱり書いておこうという気になった。
 私も一応、中国共産党史(の一部)を専門とするので、共産党の歴史の中で、どこでどうやって党の体質が今のようになったのか、それは共産党もしくは共産主義にとって必然なのか、というあたりを探ってみたいと思うのであるが、そのためには、そもそも共産党共産主義)とは何かという点から書き起こさねばならず、話はいささか長くなるだろう。
 共産党共産主義の実現を目指す政党である。安直な引用で申し訳ないが、『広辞苑(第5版)』によれば、共産主義は「私有財産制の否定と共有財産制の実現によって貧富の差をなくそうとする思想・運動」と書いてある。「私有財産制の否定と共有財産制の実現によって」という部分は、必ずしも必須とは言えず、最終目標である「貧富の差をなくす」ことを実現するためには、そうすることが必要だと考えられたに過ぎないだろう。つまり、大事なのは「貧富の差をなくす」という部分だけである。更に言えば、「貧富の差をなくすこと」よりも、食えないレベルの「貧」がいなくなることこそが大切なのであった。
 想像を絶する過酷な搾取が行われ(→参考記事=1930年頃の中国)、富めるひとつまみの人が莫大な財産を抱える一方で、その他圧倒的多数の庶民が常に生死の境をさまようという社会状況において、「貧富の差をなくし」みんなが不自由なく食える世の中を実現させようという理想は正しい。
 そういえば、国際貧困支援NGOオックスファムという組織によるデータの発表が、1〜2年に1度、話題になる。「世界で最も豊かな85人の総資産は、世界人口の半分に上る35億人の総所得に匹敵します」という報告(オックスファム・ジャパンのホームページ)は衝撃的だ。Wikipediaには、2015年における同組織の指摘として、「世界の1%の富裕層が持つ資産総額が、2016年までに残りの99%の資産総額と同程度になる」という予測を載せている。昨年、そのような状況が現実のものとなったのかどうかは知らない。現在もなお、世界の貧富の格差というのは絶大である。
 しかし、下位35億人が「食べられる」状態であれば、このアンバランスは許されるようにも思う。確かに、世界にはまだまだ奴隷と言っていいような被搾取階級が存在するだろうし、その人たちは食うや食わずの生活送っているに違いない。だが、そのような人々は、世界中に散在しているのではなく、今や極端なまでに偏在しているだろう。だとすれば、そのような一部の地域を別にすると、好戦的であるというような生存に直接関わるような問題を抱えていない限り、何主義であれ、現在の政治体制はとりあえず温存されてもいいかも知れない。
 逆に言えば、ごく一部の人による搾取で、まともに食えない人が存在する世の中では、社会変革が必要だということになる。これが共産主義が発生する背景である。中国共産党もまた、このような背景の中で生まれた。
 中国共産党が1921年7月、設立のための第1次党大会を開いた時、参加者は13名、全国にいた党員を全て集めても57人に過ぎなかった。当時、中国を支配していた国民党は、党員数こそよく分からないものの、各地方軍閥をも取り込みながら、圧倒的な構成員と巨大な軍事力とを持っていた。そんな中で、常識的に考えれば、共産党が組織を拡大し、国民党を打倒して政権を取り、社会主義もしくは共産主義体制を固めて「貧富の差をなくす」ことは不可能である。万が一にもあり得ない。国民党による弾圧は激しく、共産党に身を投ずることは、ほとんど死を覚悟するに等しい。
 こんな時、組織が腐ったりは絶対にしない。東西冷戦終結時期に見られたような、もしかすると現在の中国がそうであるような、非常に専制的な政治体制など存在しようもなかったのである。1930年代半ば、アメリカのジャーナリスト、エドガー・スノーが内陸へと自ら旅して見出した共産党とは、正に理想世界であった。厳しい環境の中で人間が共有する思想と信頼だけで結びつき、目標へ向けて私利私欲を捨てて努力をする、そんな純粋な世界がそこにはあった。(続く)