欧米思想に毒された私?

 昨日の夕方、暗くなってから帰宅したら、我が家の沖にたくさんの船の灯りが見えていた。漁り火かな、と思ったほどである。今朝、起きてみたら、おそらく2000~4000トンくらいの小型タンカーを中心とする商用船がたくさん停泊している。台風の時などには、なぜかこういうことがよく起こるのだが、今はそんな気象状況でもない。
 そのちょうど真ん中あたりに、白い船が見えている。以前からたびたび言うとおり、白い船というのは珍しいのである。双眼鏡で見てみると、海洋調査か乗船実習に使う船と思われた。最初は北海道大学の「おしょろ丸」ではないか?と、少しワクワクしたのだが(→参考記事=おしょろ丸に乗った時の話)、残念ながら煙突の色が違う。調べてみると、水産教育・研究機構(FRA)の漁業調査船「若鷹丸」(692トン)であった。定係港が塩釜の船なので、石巻に来たからといって何の不思議もないのだが、意外に見ない船なのである。
 少しでも珍しい船を見付けると嬉しくなる。このブログにも、我が家の沖にやって来る船に関する記事が相当数あるので、ついに今年の8月、「船」というカテゴリーを設定した。ところが、えてしてそういうものであろうが、カテゴリー「船」を新設した直後から、突然、「これは?!」と思うような船を見ることがなくなった。
 今夜もたくさんの船の灯りが見えている。明日の朝も、泊まっている船は同じだろうか?

 さて、昨日の続きのようなことを少し書く。中国共産党大会についてである。
 胡錦濤国家主席が会議場から退席させられた(した?)ことが話題になっている。様々な憶測が飛び交っている中で言われているとおり、机上に置いてあった書類の赤い表紙をめくって中を見ようとしたところ、隣に座っていた栗戦書(全人代常務委員長)がそれを制止し、やがて胡錦濤から書類を取り上げたように見える。赤い表紙の書類は、どうやら名簿らしい。採決を前にそれを確かめようとした胡錦濤に対し、「見ずに賛成するものだ」と栗戦書がたしなめ、言うことを聞かないので書類を取り上げた上で退席させた、ということなのではないか?それが正しいかどうかは知らないが、少なくとも体調不良といった理由ではなさそうなので、いずれ何かの政治的事情によるだろう。この一部始終を海外のマスコミの目にさらしてしまったことは、中国共産党にとって大きな失態だった。ま、「失態」とは言っても、それが何か具体的な変化やダメージをもたらすものでは全然ないのだけれど・・・。
 私はいつも、日本で国政選挙があると、その結果を目の前にして、「民主主義というのは、いくら悪くても、みんなで決めたことだから仕方がないな、と諦めを付けるためのシステムなのだ」とため息をつく。
 だが、今回のような共産党人事の決め方を見ていると、「それでも日本が民主主義国家でよかったな」と思う。民主主義は、非常にいい結果は期待できないが、完全に悪くなってしまうこともないシステムだと思われる。何しろ、投票という平穏な方法で、どんな政治家の首でもすげ替えることができるのである。
 人権問題などで、中国とアメリカがぶつかった時、中国がよく言うのは、「中国にはアメリカと違う価値観がある。偉そうに自分たちの価値観を押しつけようとするな」ということである。
 しかし、実は、問題になるのは中国とアメリカの価値観の違いではなく、中国指導部とアメリカ国民の価値観の違いではないのか。更に言えば、それは中国とかアメリカとかいった問題ではなく、国家権力と民衆との違い、と言ってもいいように思われる。中国の指導者は中国人を代表していない。もしも中国が、間接であれ直接であれ、国民の選挙によって指導者を選んでいるのなら、それによってできた政治体制から発信される価値観は中国人の価値観であり、アメリカと違うのだと主張することも許される。だが、ごく一部の指導者が、アメリカに「外部の者は余計な口を挟むな」と言っているだけだとすれば、それは単なる指導者のエゴである。
 共産党は、極端に貧富の差が大きく、下層は日々食べることにすら困っていたという国民党政権下の社会状況の中で、みんなが食える社会の実現を目指して立ち上がった。その理念は崇高であり、国民党内にいてもしかるべき地位を占め、豊かな生活をできたはずの有能な人達が、極端にリスクの大きな共産党に身を投じたことは、文句なしに尊敬に値する。原点はすばらしい。だが、ひとたび共産党が政権を取るや、指導部が暴走を始め、国民を食い物にするようになったことは哀しい現実だ。
 私は、民主主義を絶対善だとは思いたくない。他の考えがあるのであれば、他の考えも尊重したいと思う。それでも、それは全ての人の人権が等しく尊重されるならば、という条件が満たされる限りにおいてである。一部の人がいい思いをするために、他の誰かが犠牲になってはいけない。そもそも、それを認める合理的根拠は見出せない。
 結局、そのためには欧米型の民主主義しかないのではないか、と思われてくる。根底にある理念は「自由と平等」だ。こんな私は、やはり欧米思想に毒された人間だ、ということになるのだろうか。