とりあえず乗せてみる?

 昨日、しばらく休筆、と書いたにもかかわらず、今日も書くのは、昨日の話とセットだからである。前言撤回ではない。

 昨日、気仙沼の北部船主協会のYさん(→例の番組に出ていた人)が宮水に来た。私もさほど忙しくなかったので、1時間ほど話をした。そのことが昨日の記事のきっかけだったのだが、私とYさんが、求人票の話の蒸し返しをしていたわけではない(10日の懇談会には、Yさんも出ていた)。主な話題は、マグロ漁船にどんな人を採用するか、だ。
 そんな話の中で、Yさんが、基本的に中卒や高校中退は採らない、と言うので、私は「えっ?!」と思わず声を出した。もちろん、驚きの中身は「高卒にどんな価値があるの?」である。そして、私が中卒以降の人生選択は複線化されるべきだといういつもの自説(→参考)を述べたり、「とにかく高校だけは出なさい」と親や中学校の先生から言われ、嫌々ながらに入学してくる生徒が、どんな高校生活を送っているかという説明をしたり、過去に出会った「面白い!!」と思えた人物や就職して「化けた」例を互いに紹介しては、学歴や在学中の様子と就職後の働きは別だという認識、就職後の変化は事前に読めないということを確かめ合ったり、といった1時間を過ごしたのである。
 私はYさんを、大変信用するに足る立派な人物だと思っているのだが、話をしていると、私という人間が、Yさんと比べても、いかに個人志向が強いかということを意識させられた。確かに、高校を中退した生徒には変なのもいるだろうが、では、高卒なら変ではないかと言えば、そんなことはない。宮水の卒業生は変だが、気仙沼向洋(旧気仙沼水産高校)の卒業生は変でない、などとも言えない。各自てんでバラバラ。
 ただ、高校教員として間違いなく言えるのは、「高卒」は何も保証していない、ということだ。世の中の人は、どうしてそんなくだらないことにこだわって、様々なトラブルを作り出すのだろう?といつも思う。先入観や形式主義者ではなく、それでも「中卒はダメだ、やっぱり高卒はいい」と言う人がいるとすれば、それは高校を卒業したかどうか、ではなくて、3歳という年齢差、それによる自然成長の違い、だと思う。正直な話、「高校3年間で成長した!」と実感できる生徒はそれなりにいるが、それが果たして教育の成果なのか、時間の経過によるのか、と尋ねられれば、「もちろん教育だ」と言いきる自信が私にはない。
 変な人が船に乗れば、船頭(漁労長)は確かに困るだろうが、では、陸の会社なら困らないかと言えば、やっぱり困るに違いない。だが、そんな人にも生きる場は必要だ。変な人が、どこでも変だという保証もない。
 もう一つ、話題になったのは、何を求めて就職するかという問題だ。Yさんは、お金ではダメだ、と言う。私も最終的にはそう思うが、とりあえずはお金のためでもいいと思っている。人間は、お金のことだけを考えながら仕事を続けることには耐えられないだろう。だが、お金目当てで就職した後で、職場の人々と接しながら、仕事そのもののやりがいや誇りに目覚めていくということは、珍しくないだろうと思う。それでいいのではないか?事前にいくら説明しても、仕事を実際にしていない状態で、「仕事のやりがい」を実感し、「お金のためではない」を本心にすることには無理がある。
 と書けば、Yさんと話がうまくかみ合わなかったストレスをこの場に発散しているように見えるかもしれないが、そんなことはない。そして、「1航海が3ヶ月なら、私もとりあえず乗せてみようか、と思えるような気がするのですが、1年間引き返せないとなると乗せる側にも覚悟がいるんですよ・・・」というYさんの言葉には、深く共感したのであった。