文系学部で何を教えるか・・・大学論



 今朝の『朝日新聞』の「オピニオン」欄で、大学の文系学部で教えるべきは何か、という議論が為されていた。ただし、実際には、「文系学部で」と言うよりも、「大学で」という議論である。わざわざ「文系」とテーマが絞り込まれているのは、理系はアカデミズムと実用性が矛盾なく結びついているからであろう。経営コンサルタントの冨山和彦氏と、名古屋大学准教授の日比嘉高氏が自説を述べる形で、問題となる点をあぶり出そうとした企画だ。

 ごく簡単に要約すると、冨山氏は、グローバル経済圏とローカル経済圏とに二分された世界において、後者の生産性を高めるためには、技能教育を行うべきだとする。今のような学術的な大学も残してよいが、それを一部に止め、大学をも二分化しろと言うのである。一方、日比氏は、今役に立つことはすぐに役に立たなくなるのだから、どんな未来にも対応できる力を付けさせるべきだとする。それは、膨大な情報について、何が正しいかをいろいろな角度から考え抜くことによって生まれてくるものだ、と言う。基本的に、日比氏は今までのアカデミズム踏襲路線である。

 私が従来から繰り返しているのは、「社会を複線化しろ」ということである(→参考1参考2)。中学校どころか、小学校で学んだこともほとんど身に付いていない状態で、「みんなが行くから高校くらい出ておかないと」と、勉学ではなく卒業を目的として高校に進学し、スマホ片手にただただ遊び呆けている、という無理と無駄とをなくすべきだ、という立場だ。人間の能力も人間性(好き嫌い)も本当にバラバラなのに、みんなが高校に進学する、そのうち半分以上が大学に進む、というのは極めて異常なのである。

 もっとも、ほぼ全員が高校に進むことが問題なのは、今の高校の学習内容がかなり抽象的・一般的だからである。勉強ができず、嫌いな子にとって、学校は本当に辛い場所だろう。一部の柔軟で応用力豊かな生徒にとって、学校は今のままのやり方こそがよいが、そうでない子のためには、もっともっと具体的・実際的なカリキュラムに変更した方がいいかも知れない。これは、大学にもそのまま当てはまるだろう。となると、冨山氏の意見と同じようだが、そうとも言えない。高卒後の技能教育というなら、既に専門学校という選択肢があるではないか。

 にもかかわらず、勉強の苦手な、小学校の学習内容すら身に付いていないような者が、どうして専門学校を選ばず、あえて大学を選ぶのだろうか?

 自由な時間が欲しい?単なる甘えとモラトリアム?自分が学業に不向きであることに気付いていない?大学に行けば、専門学校に行くより高級な人間になれると誤解している?・・・いや、やはり社会の側に、「大卒」を一つの資格として優遇するシステムが用意されていることこそが、大学を選ぶ理由だろう。だとすれば、冨山氏の意見に従った場合、大学を専門学校化した上で、形式的な不利益を解消できるように制度を再設計するか、あるいは、専門学校を廃してローカル大学化するべきだ、ということになるだろう。

 だが、冨山氏が言うように、ローカル大学を技能教育の場に変えたとして、果たして、大学で学んだ技能が、どの程度職場で役立つだろうか?仕事で必要な能力は、現場で仕事をしながら身に付けていくのが、最も確実であり実用的なのではないか?私は、大学が技能教育にシフトしたとしても、それによってローカル圏の生産性が大きく向上するとは思えない。だから、冨山氏の議論は、現在の流れで進学率は高止まりする、もしくは更に上昇するという前提に立った上で、だったら大学はこうであるべきだ、という議論である。上にも書いたとおり、その前提はおそらく間違いだ。

 私の複線論とは、中学校卒業時点で、進学でも就職でも自由に選択し、それぞれの道で一流を目指すべきだ、進学できない者が挫折して就職を選ぶのでもなく、進学した人間が社会的に優位に立つべきでもない、それでいて、就職を選んだ者は、必要を感じた時に学校に通えるようにする、というものだ。だとすれば、大学は定時制であった方が都合がよい。社会が複線化されれば、職業人であるか、学生であるか、ゼロか100かの立場選択は難しい場合が増えると思われるからである。

 一方、日比氏が大切にするような思考力・判断力も、非常に重要である。それは、私が「哲学」と呼んでいる能力で(→参考)、社会を正義に向かわせるために不可欠なものである。しかし、それは文系・理系を問わずに必要なものであり、専門的な学習によってのみ身に付くというようでは逆に困る。義務教育レベルで基礎をしっかり教えるべきだし、大学でも、一般教養的な位置付けで構わないと思う。それを専門的に学ぶ者は一部でよい。

 以上により、私は、大学の文系学部で何を教えるべきか、ということについて、基本的に日比氏の考えに同意するけれども、そのような学習に時間の多くを費やして正面から取り組める学生は、今の大学文系学部の入学定員の何分の1もいないだろうから、大学の性質を温存したまま、定員の多くをフレキシブルな定時制にし、必要に応じて専門学校と使い分けるのがよいと考える。