文系的学問の有用性について(2)

 はっきり言って、文系的知には著者が言うような価値があるのは確かだろうが、そのためには、層を厚くするということを考えたとしても、大学で研究対象としてそれを学ぶことが許される人は、もっともっと少なくてもいい、と思う。現在、大学で文系の学問に取り組む人の数は過剰である。
 だが、人間には適性というものがある(←ここ大切)。私は、雑学の対象として理系の学問を学ぶことは好きだが、それを研究して、世の中の役に立つことが出来るとは思わない。少なくとも費用対効果が悪すぎる。本当に残念ながら、私の頭はどうしても理系に向いていないのである。
 このことからすれば、文系は役に立たないから、学部を廃止または縮小し、その代わりに理系の定員をもっともっと増やせ、と言っても無理なのである(←ここ大切)。適性が違うのだから、現在文系学部に進んでいる学生の多くは、理系には進めない、もしくは、無理に理系に進んだとしても、世の中に役立つ研究など出来ない。だったら、文系頭の人間はせいぜい高卒で、理系頭の人間だけを大学に進学させればいいではないか、ということになる。本当にそれでいいだろうか?
 大学を純粋に学問だけの場と位置付けるならば、それでもいいかもしれない。だが、そうではないだろう。人間の成熟には、文系人間でも理系人間でも同じだけの時間がかかる。文系頭の人間は18歳で社会に出、理系頭の人間は22歳で社会に出る、というのはアンバランスだ。いや、理系は修士まで進む率が文系よりも相当高いから、その差は平均値でもっと広がる。このアンバランスは、社会に出る年齢のアンバランスであると同時に、理系の専門的知識や技能を持たない人間と持つ人間との学歴(学校在籍年数)のアンバランスである。
 よく、高校で「数学なんか勉強して何の役に立つんだ!?」と愚痴る高校生に、「数学の知識そのものは確かにほとんど役に立たないが、このような思考のトレーニングが脳を育てるから大切なのだ」と諭す場面がある。文系の学問もよく似た面がある。そこでの学びが、著者のいうような新しい価値や目的を発見する知ではなかったとしても、学ぶプロセスが脳を育てるという意味で価値があるのではないか?情報を取り入れ、批判的に検討し、アウトプットするという技能は、身につける価値のある重要な技能である。大学4年間という時間の中で、授業以外にもいろいろな経験をし、学ぶことも多いだろう。文系の学問が役に立たないからといって、学生生活のそれ以外の要素も根こそぎ奪ってしまうのは、大学生活を矮小化し過ぎている。
 もう一度確認するが、文系の学問は役に立たないから、文系学部を廃止、または大幅に定員削減して理系に回せ、というのは、人間の適性というものを考えない暴論である。著者が言うように、文系の学問をして、新しい価値や目的を発見できる人は少数だろうし、それは理系の人にも出来るはずのことである。その意味で、文系の専門性は低い。だが、思考のトレーニングをすること、学問以外を含む学生生活それ自体の価値は大きい。
 著者はこれらのことに言及していない。だが、著者の主張も私の主張も、結局のところ、文系学部の否定は目先の利益主義に基づき、目先の利益主義は狭隘な視野そのものである、と考えている点では一致する。現政権はそれで一貫している。救いのない世界である。だが、それはまた国民の思考レベルの反映である。(完)