私の学問史(1)


 一昨日、「学問」に関することを少し書いてから、自分の学問史とも言うべきものを整理しておこうか、という気になった。ありのままを正直に書く、というわけにはいかないかも知れないが、そこに含まれる多少の紆余曲折が、もしかすると高校生〜大学院生にとって多少の参考にもなろうかと思う。


 高校時代、3年生になる時に文系と理系の選択があった。私は文系を選択したが、これはどちらかというと消去法である。高校に入学した時の希望は理系で、気象大学校(どうしてこんなマイナーな大学を知っていたのか?不思議である)か理学部に進もうと思っていた。東京芸術大学音楽学部にも強い憧れを持っていたが、それがただの夢物語であることは始めから分かっていたので、現実的な目標にはならなかった。

 ところが、高校での成績がまったく希望とかみ合わなかった。数学は決して嫌いではなかったが、点数が極端なまでに悪かった。高校2年の文理選択時までには、どう考えても理系で勝負できそうにはない状況に追い込まれていた。

 理系をあきらめたことによる失望感のようなものは強くなかった。世の中には、私が興味を持てるものが山のようにあったから、文系だからといって「やりたいことがない」ということはなかった。

 そもそも、理系・文系とは、大学受験のレベルで言えば、数学Ⅲを必要とするかどうかという違いでしかない。だが、それはあくまでも「大学受験」という基準で見た場合に過ぎない。では、文系・理系に本質的な違いがないかと言えば、決してそうではない。基本的に、自然に関する真理の探究をするのが理系、人間について学ぶのが文系ということになるだろう。その違いを、当時の私が認識していたかどうかは非常に怪しい。というのも、私は、文系に進む以上は人間を探求したい、そのためには、哲学か教育学(教員養成ではなく理論)がいいと思い、同じく文系の学問とされる法学や経済学は、人間学であると思っていなかったからである。

 高校3年の1月、共通一次試験の前後に、文学部で哲学を学ぶことに決めた。何か明瞭な問題意識があったわけではなく、「哲学」というものの持つ深遠な雰囲気に憧れたに過ぎない。当時の私にとって「哲学」はドイツ哲学であった。学問の王道は哲学であり、哲学の王道はドイツ観念論であり、ドイツ観念論と言えばヘーゲルである、というあまり根拠のない思い込みを持っていた。何によってこのような考えを持つようになったのか、高校までの読書歴を思い出してみても、心当たりがない。ともかく、私は大学でドイツ哲学を学ぶことにしたのである。

 ところで、いよいよ受験する大学も決めなければならないという時期に、私は学問、特に自分が学ぼうとする哲学の有用性という問題にぶつかっていた。いろいろな希望を持ち、いろいろな大学・学部を選択して受験に行こうとしている同級生と話をしながら、例えば教育学部や工学部、医学部といった学部を受ける友人たちの理由付けの中に、「人の役に立つ」ということが含まれることが気になった。それと比べて、自分のしようとする学問の中には、どうしてもそのような「人の役に立つ」要素を見つけることができなかった。私はある種のコンプレックスを感じ、受験を先延ばしするわけにもいかず、大学も決まっていないという苛立ちの中で、悶々としていた。

 それを見た当時のクラス担任が、一度大学の先生と話をしてこい、と言って、私に自分の恩師を紹介してくれた。クラス担任は井上美智子先生という、50才前後の女の体育の先生だった。神戸大学教育学部の出身で、バレーボール部の顧問として世話になった井上庄七先生という方が、文学部の西洋哲学の教授として、今でも大学にいらっしゃるのだということだった。1月末のある日の午後、私は学校を休んで神戸大学を訪ねた。井上教授や研究室の助手の方(名前失念)から、2時間ほどいろいろな話を聞かせていただいた。 心の中にもやもやしていたものがきれいになくなった、というわけではなかったが、既にそのような世界に半分足を突っ込んでしまったという、覚悟のようなあきらめのような気持ちが生まれた。哲学の有用性の問題は、解決ではなく、先送りとなった。また、井上教授からは、本気で勉強する気があるのなら、戦前から文学部のあった大学に入りなさい、と言われた。スタッフといい、蔵書といい、それが間違いの無い選択なのだ、ということだった。

 私の調べた限りでは、戦前から文学部を持っていた国立大学は6つしかなかった(私立は親から禁止されていた)。その中から、私は東北大学を受けることに決めた。暑い所が苦手だということと、不合格になる可能性を少しでも小さくしたい、というのが主な理由で、次が、中学2年の夏までを宮城県で過ごしたことによる安心感だった。

 私が今、生徒が進学先や人生に悩んでいたとして、大学時代の恩師に紹介できるだろうか、と思う。大学の先生も、特に年度末は決して暇ではないし、恩師となれば、一般には、そうそう気安くものを頼めるわけでもない。時間が経てば経つほど、すなわち大人の世界の事情が分かれば分かるほど、あの時、井上美智子先生はよく私を井上教授に紹介して下さったものだ、と思い、感謝の気持ちで一杯になる。残念ながら、先生は、私が卒業してからわずか2〜3年後、在職のままガンのために亡くなってしまった。

 昭和56年(1981年)、私は東北大学文学部に入学し、仙台での生活を始めた。(つづく)