私の学問史(2)


 東北大学の文学部は、当時1学年160名の一括募集で、3年生になる時に専攻(研究室)を決めることになっていた。ただし、それぞれの専攻に進むためには、2年生の時に取っておかなければならない単位というのがあるので、結論を先延ばしにしようと思えば、2年生の時にたくさんの授業を受けなければならず、負担が大きい。だから、実質的には、1年生の終わり頃に、専攻を決めておく必要があった。

 入学すると、4月か5月に、専攻決定のための最初のオリエンテーションが行われる。全体説明の後、各研究室で個別に話を聞くというやり方だ。私はもちろん、西洋哲学・倫理学研究室に行った(これらは別の二つの講座たが、オリエンテーションは一緒だった)。当時の東北大学には、あくまでも私の記憶の範囲であるが、現象学滝浦静雄教授、ギリシャ哲学の岩田靖夫教授、実存哲学(倫理学)の亀井裕教授、そして、ヘーゲルの専門家、後に京都大学に移り、環境倫理学を唱導して有名になった加藤尚武先生が、助教授としておられた。研究室に集まった同級生たちが、自己紹介の中で、自分が研究対象としてみたい哲学者の名前として、私の全然聞いたこともない名前を後から後から口にし、難しげな用語を使って話をするので、私は小さくなっていた。終わって座が乱れた頃、加藤先生に、「先生は自分の学問の有用性をどのように考えておられますか?」と質問したところ、笑いながら「ずいぶん悟ったようなことを聞くねぇ」とはぐらかされたことを、よく覚えている。

 その数日後、大学がオリエンテーションとして設定した時間とは関係なく、私は個人的に、アポもとらず、中国哲学金谷治先生の部屋を訪ねた。私は高校時代、金谷治訳注『論語』(岩波文庫)を愛読書としていて、その平易な語り口に魅力を感じていたのである。中国哲学を専攻してもよい、などと考えていたわけではない。ただ、その訳注者が自分の入った大学にいるからには、一度会ってみたくなったという、何だか非常に失礼な好奇心から研究室の扉を叩いただけである。

 金谷先生の部屋には、茶釜があって、お湯が沸いていた。先生は自ら抹茶を点てて、この向こう見ずな若者を歓迎して下さった。話の途中で、外国語選択の話になった。先生が私の選択を訪ねるので、英語とドイツ語だと答えると、先生は「大学に入ってわざわざ英語を選ぶこともないだろう。どうせだったら、何か他の言葉にしなさい。ドイツ語と同じ西洋語ではない方がいい。中国語でも取ってみてはどうだ?」とおっしゃった。これは、まったく考えてもみなかったことであった。 だが、なんとなく、その場の雰囲気から「はぁ」という曖昧な返事をした私は、結局、中国語を選択した。文学部には、第一外国語、第二外国語といった区別は存在せず、英語も必修ではなかった。何でもよいから二つ以上、というのが規則だった。

 聞く所によれば、最近は中国語の人気が非常に高いらしい。前任校の卒業生に会った時、外国語の選択を何にしたか尋ねてみると、驚くほど高い確率で「中国語」という答えが返ってくる。私が大学に入った年、すなわち文化大革命が終わってから5年も経たないこの時期に中国語を選んだのは、2300人あまりいた同級生(全学部)の中で30名くらいではなかったかと思う。

 当然、中国語の先生も少なく、当時まだ存在した「教養部」で現代中国語を教えていた専任の教官は、阿部兼也先生という方だけだった。本人がご存命のはずなので、その人となりや言動を書くことははばかるが、とりあえず前時代的な名物教官と言っておけば、さほど間違いにはならないだろう。

 この方の中国語指導は独特、かつ画期的なものだった。中国語はとにかく発音をしっかり身に付けなければ先へは進めないと、授業の大半は発音練習に費やされた。と書けば、やや正確さを欠くかも知れない。

 私が入学する10年あまり前、大学紛争で授業が行われておらず、時間に余裕があった時期に、先生は、その時間を利用して、身近な何名かの学生に徹底的に中国語の発音を叩き込んだらしい。翌春、その学生にチューターとして新入生を受け持たせ、発音練習を徹底的に行わせた。これをその次、またその次の代へと受け継がせる。これが先生の完成させた中国語発音学習システムだ。このやり方が、今でも受け継がれているのかどうかは知らないが、私の時には十分に機能していて、私もWさんという2年生に、毎日、昼休みや空き時間を利用して、2ヶ月間、発音トレーニングを受けた。先生は、授業で学生にテキストを朗読させ、どこの発音が悪いかということを指摘するだけだ。つまり、授業で行われたのは、発音練習ではなく、発音確認である。発音が上手くできないと、時に、叱責はチューターに向かった。これは本当に素晴らしいシステムだった。この時、徹底的に発音を叩き込まれ、文字の音を覚えさせられたことが、後々どれほど役に立ったか分からない。

 中国語を勉強してみると、私には、ドイツ語や英語のようなヨーロッパ語よりも、中国語の方がはるかに親しみやすいと感じられた。ほとんど誰も見向きもしない中国語を選択した学生には変わり者が多く、阿部先生の求心力に支配されたわずか30名ほどの狭く濃密な人間関係も面白かった。西洋哲学関係の授業では、K・レーヴィットの文章を読んでいた輪田先生(名前失念)の授業だけは少し面白かったが、中国関係に比べると学生が生真面目過ぎて(今で言う「オタク」)、付いて行けない雰囲気を感じていた。

 阿部先生は、本心なのかパフォーマンスなのか分からないが、中国学以外の専攻に激しい嫌悪感をむき出しにしていた。高尚な中国学に対し、他の専攻はすべて「えせ学問」扱いだった。私は、中国学を専攻するかどうかまでは決心できないものの、その可能性を残すために、2年生で阿部先生の「中国語購読」の授業を取った。

 中国語購読を選択したのは文学部の学生だけなので、10名にもならなかった。テキストは中国四大奇書のひとつであり、そのあまりにも露骨な性描写から発禁本にさえなったという明代の長編小説『金瓶梅』。人数が少ないので、授業は常に先生の研究室で行われた。ただひたすら、ものすごい勢いで朗読するだけの授業だ。解説などほとんどしてくれない。朗読を聞けば学生が内容を理解しているかどうかぐらい分かる訳だから、時に何の説明もなく雷が落ちる。街の飲み屋で授業をしたこともあった。先生に勧められて、2年生の夏には西安外語学院に3週間滞在して、これまた大いに刺激を受けた。

 こんなことをしているうちに、中国から足を洗うことができなくなった。中国に対する積極的な興味関心があったかどうかは怪しい。希望する学生が毎年少なく、極端な言い方をすれば研究室の存続が気息奄々といった感じの中国学3研究室(文学・哲学・史学)にとって、教養部に阿部兼也先生という特異な宣伝窓口があったことは、甚だ好都合なことだっただろう。

 私は、大学に入った時の「初心」を少しだけ尊重し、哲学科中国哲学専攻という所に進むことにした。(つづく)