石田秀実さんのこと

 先日、我が家の書架で本を探していて、探していたのとは違う1冊の本に目が止まった。『気・流れる身体』(平河出版社、1987年)という本だ。著者は石田秀実さん。私が学生時代、研究室の助手だった方である。出版された時期も、ちょうど私が大学院前期課程を卒業した当時だ。ただし、私が研究室に在籍していた4年間、ずっと石田さんが助手だったかどうか、記憶が定かでない。
 私が学生時代、最も世話になった(=迷惑をかけた)方だったこともあって、懐かしさがこみ上げてきた。北九州の八幡大学に正規の教員として就職したところまでは憶えているのだが、その後の消息については知らなかった。
 文明の利器・インターネットで、今、石田さんが何をしておられるのか検索してみたところ、驚いたことに、訃報を目にすることになった。2017年12月6日発刊『週刊あはきワールド』(鍼灸師あん摩マッサージ指圧師柔道整復師を読者とするWeb紙らしい)の記事である。講演する石田さんの写真が貼り付けられている。少し年を取り、太りはしたが、確かにあの石田秀実さんだ。記事には次のようにある。

「腎不全で病床に伏せっておられた中国医学研究者で思想家、現代音楽家の石田秀実氏が、10月30日、永眠された。享年68。
 石田氏は、早稲田大学法学部を卒業後、いったん銀行に勤務したものの、半年で退職、東北大学文学部哲学科に学士入学され、同大学院で中国学を専攻。その後は、東北大学文学部中国哲学科助手を経て、八幡大学(現・九州国際大学法経学部に、倫理学担当の助教授、教授として、2009年まで勤務された。」

 この記事にあるとおり、なかなか変わった経歴の持ち主である。私の記憶によれば、現代音楽家というのは作曲家としてであって、ご自身はビオラ・ダ・ガンバやチェロを弾き(早稲田のオーケストラではバイオリンだったという話を聞いたことがある)、そのレパートリーの中心はバロックであった(と記憶する)。
 作曲家というのも「自称」ではない。ちゃんとした作品集のCDが出ていて、演奏者は高橋悠治・アキやアンサンブル・ノマドだから、専門家からも評価されていたのである。
 専門は「中国哲学」なのだが、儒教道教、仏教のどれかを選ぶことが基本の中国哲学の世界において、石田さんの専門は身体論(医学思想)だった。少なくとも当時、これは極めて異色。私が学生時代は、論文を年に3~5本というすさまじいペースで書いていた。

 上の経歴に「思想家」とあるのは、西洋の現代思想にもたいへん詳しく、従来の枠にとらわれない柔軟な思考が、独特の思想世界を作っていたことを評価するものである、と私は解する。驚くべき多才な人であった。

 ひっそりと穏やかな方で、いつも笑みを浮かべているような表情だったが、経歴や専門の特異性から少し感じられるとおり、強烈な自我を持ち、安易に他に同ぜず、自分自身の世界をしっかりと持っておられる方であった。彼のなんとなく静かで孤独な雰囲気は、おそらく、大学の外に音楽を中心とする広大な人脈を持っていたため、大学関係者といつもつるんでいる必要がなかった、ということであったとも思う。
 石田さんと言えば、私は二つのことを思い出す。一つは、その名前を初めて聞いた時のことだ。大学に入り、学部のオリエンテーション中国哲学の研究室を訪ねられなかった私は、翌日だったか、当時教授であられた金谷治先生の部屋を訪ねた。アポなしで、たいした問題意識も持たずにふらりと訪ねた新入生を、定年間際の老教授は歓迎して下さった。自ら抹茶を点て、あれこれとお話をして下さるうちに、当時の研究室のメンバーの話になった。最も面白い学生として、金谷先生は石田さんのことを語った。話には熱があった。ははぁ、教授が学生に期待をかけるというのはこういうことなのだな、と思ったのを憶えている。二つ目は漢方だ。石田さんといえども、さすがに医師の免許は持っていなかったが、広い漢方の知識をもとに、研究室の誰かが二日酔いだとか風邪気味だとか言うたびに、小さなアルミ製のやかんで漢方薬を煎じてくれた。お湯の沸くコトコトというかすかな音と、研究室に充満し染みついていた漢方薬の匂い。それが私にとっては石田さんの存在そのもののような気がしていた。
 今、私は自分の学生時代を振り返って、その幼さと学業に対する姿勢の甘さにおいて、正に穴があったら入りたいような恥ずかしさを感じる。そんな私に対して、実に寛容に接し、面倒を見てくれた上、騒々しい研究室内で黙々と論文を書いていた姿は、今にしてますます大きな畏敬の対象となる。
 石田さんは私よりちょうど一回り年上なので、亡くなったのは満67歳の時である。これはあまりにも早過ぎはしないか?自分も少しは学問の話ができるようになってきたのに・・・。本当に残念だ。寂しさとも哀しさともつかぬ気持ちが、体の中で渦を巻く。合掌。