話が一致する哀しさ

 札沼線で札幌に戻ると、私は駅近くのジンギスカン専門店で、若き友人Mさんファミリーと会った。Mさんは、1年あまり前から北海道で最も有名な大学、某H大学の先生をしている。生まれて間もない子供に初めて会い、一緒にジンギスカンを食べ、その後はスイーツと、3時間あまり楽しくお話しをした。
 とはいえ、今日ここに紹介するのは楽しくも感動的でもない、困ったお話である。
 Mさんは、冒頭から学生を指導することについての悩みを語り始めた。3時間の間に語られた学生に関する話をつなぎ合わせると、おおよそ次のようになる。
「学生の勉強に対する意欲の低さに驚いている。そもそも、学問をしたいと思って大学に来ていない。卒業証書をもらって、いい会社に入りたい、そのためにはできるだけ手間をかけず、効率的に単位が取りたい、ということのようだ。勉強しない学生には単位を出さなければいいのは分かっているが、どれだけの学生を受け入れ、卒業させたかによって研究室への予算配分が影響を受けるので、卒業できない学生が生まれることはまずい。その点については、教授からのプレッシャーも非常に強い。自分としては、勉強したいから来るのが大学なのだから、そもそも、やる気のない学生をどうするかとか考えるのは変だと思う。だが、教授からはやる気を出させるのも仕事のうちだ、サービス業なのだから、と言われる。結局、強い違和感を感じながら、卒業論文の代筆のようなことまでやらざるを得なくなった。・・・・」
 私は耳を疑った。H大学と言えば、国立大学の雄、全国の高校生のあこがれる大学の一つだ。Mさんの所属する某学部について、帰宅してからネットで偏差値ランキング(「大学偏差値.biz」)なるものを見てみたら、S〜Gの8段階評価で上から2番目のAになっている。
 ところが、上の話の内容は、完全に私の日常の悩みと重なり合う。私の勤務している高校は、正直言って、宮城県内の高校でほぼビリ、同じランキングの高校版(「高校偏差値.net」)で一番下のGだ。大学受験生全体のせいぜい10%しか合格できないH大学の先生と、中学生全体の下位10%の成績で入れる田舎の水産学校の教員である私が、学生・生徒の実態、特に学習動機や学習意欲について、まったく同じレベルで悩みを語り合うというのは、喜劇であり悲劇だ。思えば、高校偏差値ランキングAの前任校でも、同様の事情は確かにあった。私にしてみれば、勉強が出来ないから学習姿勢に問題がある(もちろんこれら二つの因果関係は鶏と卵の関係)と思っているのに、勉強の出来る学生でも同じだとすれば、いったいまともな学生・生徒はどこにいるのか?どこの学生が主体的、意欲的に学んで日本の社会を引っ張って行くというのか?という話になるからである。
 だが、冷静に状況を見つめてみると、この問題に関しては、研究費・学校運営費の配分や、高校の統廃合、といった制度設計をしている側の責任も非常に重大だ。
 私は以前から、高村光太郎の「原因に生きる。結果は知らない」という言葉をよく引用する。結果(人の評価など)を出発点として考えると、やることは理念から遠ざかり本物にならない、結果とは関係なく、やらなければならないと思ったこと、本当にやりたいと思ったことをやるべきだ、それによってこそ本物の仕事、普遍的な価値を持つ仕事は生まれる、だから自分は人の評価を気にせず、やりたいと思ったことをやる、というような意味だ。動機とそこから生み出されるものの質との関係において、これはまったく正しい。
 制度設計に携わるような「頭のいい」人たちが、「結果」ばかりを基準に仕事をしていてどうするのか。「利益は目前に、より大きな不利益が将来に」(→参考)とか、「真偽と損得は矛盾する」(→参考)というのは、私の口癖だが、どうしてもそうなのだ。教育を「サービス業」だとする発想がいったいいつ頃から見られるようになったか知らない。私は無下に否定はしない。だが、この場合の「サービス」とは、学生に迎合して、彼らの要求に応えてやることなのか?それとも、ハードルを設定し、妥協を排して時には教え時には突き放しながら、そのハードルを越えるように仕向けることなのか?あるいは、学生に対するサービスなのか?社会に対するサービスなのか?今に対するサービスなのか?将来に対するサービスなのか?
 とにかく何が何でも定員を満たせ、単位を取らせろ、卒業させろ、学位を与えろ、それが出来ないのは教員のせいだ、などとやっていたのでは、悪循環を起こして、学問の世界でも本物の価値は生み出されず、仕事の世界でも職場の活力は失われていく。高卒、大卒、修士、博士といったラベルで評価するのではなく、実質で評価する、それは、今のようなことをやり続けた大学や高校が社会的信頼を失うことによって初めて実現することなのだろうか?そもそも、制度設計をしている人たち自身が、Mさんの嘆くような学生生活を送り、効率よく官僚試験(国家Ⅰ種など)に合格して、そのような立場に立っているのではないか?そんな疑念が、時間を追って強くなってくる。
 もっとも、私自身は、Mさんの話を聞いて、大きな励ましと慰めを受け、明るい気持ちにもなった。まぁ、H大学でもそんな状態なら、自分の勤務校の生徒が少々ひどくても仕方がないな、世の中どこへ行っても似たようなものなのだ・・・という、ひどく消極的な励ましと慰めである。

 えりものおじさんのお見舞いを目的とする北海道だったが、終わってみれば、札沼線も、Mさん一家との時間も、全てが等しく主目的だったと思えるほどに充実していた。往復の船の中の時間も含めて、本当にいい旅行だった。