「学歴は変わるか」(2)



 次に、自分の足下、つまり高校卒業の価値というものを考えてみよう。大学だけではなく、高校にも序列があり、どこの高校を出たかということは立派な「学歴」だからである。

 このことに関して言えば、正直な話、どこの大学に入ったかよりも、更にデタラメである。元々、人は面倒を嫌うし、今の学校というのは、ひどい多忙の状態にあるため、学校はトラブルが起こることを極端に恐れる。すると、成績で、赤点や留年者を出すことで、クレームが発生することが怖い。日本人というのは、とにかく「みんなと一緒」ということに大きな価値を見出す民族なので、留年して学年がずれた時には、それが自分の責任だと分かっていても、退学、もしくは不登校を引き起こす可能性が非常に高い。何が起ころうとも勉強しなかった責任を取らせることと、実質が伴わないことを承知で進級・卒業させるのと、一体どちらが教育上よいのかは非常に悩ましいし、退学や不登校を引き起こしたことについてのクレームも困る。だから、少々デタラメな生徒であっても、なんとか進級・卒業させてしまうのが無難なので、学校はそうしようとする。いや、個々の学校の問題ではない。教育政策がその方向へ進んできた。

 例えば、ほとんどの学校で、授業時数の3分の1以上欠席した生徒は単位を認めないという規定がある。もともと、これはひどく寛容な規定である。3分の1授業に出なかったというのは、授業者の実感としては、その生徒が半分くらいいなかった感じであり、その授業をきちんと受けたとはとても言えない基準である。では、この基準がどのような教育思想に基づいて作られたかというと、説明を受けた覚えがないことから思うに、おそらく、根拠らしい根拠はないのである。しかも、昔は実際に行った授業(=実授業数)の3分の1だったのに、なかなか文科省が言うように1単位当たり35週を確保できない学校の現実の中で、実授業数に関係なく、法令上の基準である1単位当たり35時間を分母にするようにというおふれが出た。実授業数が1単位当たり35に満たない場合は、3分の1以上休んでも単位が認定されるということである。これが、「学ぶ」というのがどういうことか、授業にどの程度の価値があるのか、という理念から出発した話ならよいが、どこに線を引けばトラブルにならないか、あるいは裁判になっても勝てるか、という直感めいた基準に基づく相当に日和見主義的なルールと思われる。

 立場上、これ以上あからさまなことは書けないが、「高校卒業」の価値というのは、極めて積極的に(←「極めて」は重要。なぜなら、多少積極的なくらいなら、親や教師が再考を促し、引き留めるから)学校を投げ出してはしまわなかったことを保証する、というものでしかない。しかも、「極めて積極的に学校を投げ出してしまわなかった」のは、単に、学校を上回る価値を他に探せなかっただけ、かも知れない。だから、少なくとも、「卒業」は、その高校を卒業するにふさわしい実力を身に付けた、ということにはなっていないのである。この点に関しては、偏差値60の高校でも、30の高校でも、実情にたいした違いは無い。

 学校毎に多少の違いはあるが、世の中の多くの高校は、勉強などしたくないのに、「高校くらい出ておきなさい」と親に叱咤され、諭されて入ってきた高校生で充満している。彼らがどのような高校生活を送るかということは、推して知るべし、だ。就職の求人票も「高卒求人」のカテゴリーがあるので、世間では「高卒」ということに、何かしらの価値を見出しているようだ。しかし、「高卒」に何かの価値があるのか、それが何かを保証しているのか、と言えば、私には自信を持って答えられることがない。なぜ世間はそんなことに価値を感じるのだろう?と不思議に思うばかりである。目的意識もなく、無為な学校生活を送るくらいなら、自分で面白いと思ってできる仕事を探した方がよほどよい、と思う。

 さて、昨日来、大学へ行くことについても、高校を卒業することについても、ひどく否定的なことばかり書いてきた。ここらで、「学歴は変わるか」ということについて、私の思いを書くことにしよう。

 私は、そう遠くない将来、学歴は変わる、と思っている。なぜなら、大学が経営という現実に敗北して、ハードルをどんどん下げ、高校も(多分大学も)面倒を恐れて、入ってきた生徒(学生)は、要求しただけのものを身に付けなくても卒業させるということを、今のようになし崩し的に続けていけば、近い将来、高校・大学は信頼を失い、「○○大卒」「高校卒業」といった「学歴」に人々が価値を感じなくなるはずだからである。私はそれを歓迎する。形式的な権威が崩壊した時に、人々は個々の実質的な価値に目を向けるようになるはずだからだ。

 思えば、なぜ人(=日本人。このことについてはまた後で・・・)が学歴を尊重するかと言えば、個々の実質的な価値を判断することが難しく面倒なので、手っ取り早く、ラベルで判断してしまおうとするからである。ラベルが信用を失った時、人は個々を見つめ、その価値を判断するという当たり前のことを始めるに違いない。だから、大学は「経営」のために、いろいろもっともらしい理屈付けをしながら、向学心も目的意識も持たない生徒を採り、高校は面倒を避けるために、ほとんど何もしないような生徒をどんどん卒業させればいいのだ、と思う。(続く)