「学歴は変わるか」(3)



 二日間書いてみて、どうもあまり整然とした論になっていない。蛇足にしかならないかも知れないが、少し補足をしておこう。

 最初の問題に戻ってみよう。学歴と実力に相関関係はあるのだろうか?

 先日、ある所で、「262の法則」という話を聞き、あまりにも現実味があったものだから、すっかり感心してしまった。それは、人間のあらゆる集団において、優秀な人間が2割、平凡な人間が6割、愚鈍な人間が2割という比例法則が成り立つ、ということである。これは、例えばこんなことだ。ある中学校の上位2割の優等生が、偏差値60の某有名高校へ進んだ。すると、各中学校から集まった上位2割の生徒たちでありながら、その高校の中でまた2−6−2に分解していく。その高校の上位2割が某有名大学に進むと、その大学の中で、また2−6−2に分かれていく。別の言い方をすれば、上位2割が進んだ学校の中で、優秀な状態を維持するのは2割で、あとはむしろ堕落して平凡な存在となり、2割についてはどうしようもない存在へと下落していく、ということだ。逆に、中学校の下位2割が偏差値40の高校に進んだとすると、そのうちの2割は優秀な生徒へと変わるが、下位2割は劣等生であることを維持する。しかし、その下位2割が偏差値40の大学に進学するや、そのうちの2割は優秀な学生へと変貌を遂げる。「鶏口牛後」という言葉もあるとおり、人間というのは、有名大学で下位2割に入るくらいなら、そうではない大学で上位2割に入る方が値打ちがあるし、その人も伸びるような気がする。つまり、やはり学歴と実力に、どれほどの相関関係があるかについて、私は懐疑的だ。

 しかし、人間にはいろいろな能力があるし、社会も必要とする人材が一通りではない。ある特定の分野に関して、学歴が強い相関関係を示すということはあるかも知れない。例えば、学力の高い生徒は、創造性についてはある生徒もない生徒もいるが、おおむね事務能力は高いことがはっきりしている。だから、東大や京大は、事務処理能力を求めるなら、学歴として尊重に値するような気がする。また、概して偏差値の高い大学・高校の学生・生徒ほど、行儀がよく、問題行動を起こしにくいというのも正しいだろう。

 だとすれば、学歴を尊重して社員を採用することには無理があるが、あまりにも多くの学生が採用試験を受けに来るという場合、学歴で「足切り」することは、多少の意味があるだろう。しかし、それはあくまでも、優れた事務的能力とお行儀の良さを大切な価値観としている場合である。

 さて、もうひとつ、日本人と学歴の関係である。そもそも、学歴などを尊重するのは、日本独自の文化に近いのではないかと思う。イギリスなどは、オックスフォード大、ケンブリッジ大の卒業生が各所で幅をきかせているという話を聞くし、それらの大学の卒業生が特権意識を持ち、彼ら同士で群れたがるという話も聞いたことがある。だが、それが日本の「学歴尊重」と同じかどうかは分からない。いずれにしても、「日本だけの」とは言わないまでも、少数派ではあると思う。また、日本のように、大学は、入りさえすれば出るのは簡単、という国と、それなりの実力が無ければ絶対に大学を卒業させてもらえない国とで、学歴の扱いは違って当然だ。MITや清華大学の学生に求人が殺到するのと、果たして同列に考えてよいかどうか・・・?いい加減な入試制度や安易な卒業認定があるからこそ、日本で学歴が尊重されることに、私は違和感を持つのだと思う。

 よく言われるとおり、日本は島国であり、村社会である。日本人は、自我が未成熟で、周囲の顔色を伺うという相対的思考が得意である。つまり、自分自身で考え、評価するということが苦手だ。非常に権威主義的で、地位・肩書きや○○賞に弱い。言うまでもなく、「学歴尊重」はそのような文化的背景の上に成り立つ価値観である。だから、「学歴尊重」を脱したければ、人の価値を直視して評価するという面倒な作業が必要で、それは、日本人の国民性を乗り越えようという壮大な試みである。

 だから、「学歴」が変わる時には、日本人の国民性も変化しているはずである。しかし、大学や高校が自滅し、信頼を失うことで学歴社会が崩壊するのではなく、日本人の国民性を近代的・個人主義的なものへと高めた結果として学歴社会が崩壊するほうが、よりいっそう健全である。問題は学歴社会ではなく、国民性なのだ。(終わり)