娘の教育

 我が家に中学2年の娘(M)がいる。来年度は受験生というやつだ。成績はさほどよくない。私も中学時代は決して成績優秀ではなかったが、それよりも更に2割くらいは悪いように思う。この娘について、最近妻とだいたい以下のような会話をした。

妻「ねぇ、Mを一度塾に通わせたらどうかなぁ。このままだとまずいと思うんだけど。」
私「え!?Mが塾に行きたいって言ってるんならともかく、親が塾へ行かせて勉強させたって、そんなのは本当の勉強じゃないし、いくら今の成績が悪くたって、自分で勉強しなきゃ、って気が付きさえすれば、すぐに取り返せるんだから、塾に行かせる必要なんかないよ。」
妻「気付かなかったらどうするのよ。見ていると、このまま気が付かずに時間切れ、ってなりそうなんだけど。」
私「気が付くか気が付かないかも能力のうちさ。気が付くだけの能力がなければ、親や塾・学校の先生がうるさく言って勉強させたって、勉強嫌いになるのがオチで、いいことなんかない。気が付くだけの能力があれば、気が付いた瞬間から自分で勉強し、中学校ごときの成績なんてどうにでもなる。自分で気が付いて勉強したのに、親が期待するとおりの成績にならなかったとして、それも能力なんだから仕方がない。14歳でこの程度、と思っても、18歳の時にどうなっているかは分からない。MにはMの能力と考えとがあって、それを全面的に認めるしかない・・・私はそう思うよ。」
妻「だけど、例えば○高校に行けずに、△高校に入ったら、その時点で人生の選択を狭めることになっちゃうんじゃないの?」
私「△高校に入ったら、もう~という選択肢は消える、というようなことはないと思うけど、確かに入った高校とその後の進路選択に相関関係はあると思う。環境というのは影響力として大きいから、同じ大学でも、○高校にいた方が、△高校にいるよりも入りやすいのは確かだ。俗っぽい言い方だけれど、やっぱり少しでも偏差値の高い高校に入っておくのは無難さ。私自身の経験から言っても、人間的に『いい人』がどの程度いるかは高校の偏差値と関係がないけど、『面白い人』がどの程度いるかは深く関係する。その点でも、少しでも偏差値の高い高校に入った方がいいとは思うよ。ただし、その『面白い』というのは知的にということであって、私が面白いと感じる人が、他の人にとっても面白いと感じられるわけじゃない。私が『面白い』を思う人を、Mも『面白い』と感じられるようになって欲しい、というだけさ。Mにとって『面白い』人は、△高校の方が多いかもしれない。やっぱり、人間っていうのは、自分の身の丈に合ったところにいるのが一番いいんじゃないの?確かにMの成績はいいとは言えないけど、自分の興味関心に従って本を読んだり調べたり、っていうことは出来るわけだし、読む本や見るテレビ番組を見ていると、成績がどうのこうのという問題とは別に、それなりの知的好奇心っていうか、知的水準にあるような気がする。そのうち芽出るんじゃないの?そう思って見ていればいいよ。」
妻「そうかなぁ・・・?」

 我が家には本があふれている。新聞も2紙取っている(土日は3~4紙)。テレビが付けっぱなしになっているということはなく、おバカ芸人が出演して騒いでいるバラエティー番組がついているということもない。親がスマホ(ゲーム)やパチンコに狂っているということもなく、家に出入りする人にも、高校だけでなく、小学校から大学まで、教育関係者・研究者が多い。知的刺激に不足はないはずだ。この環境にいて、学ぶことに目が向かなければ(そして、芽が出なければ)、それはやはり「天」の思し召しだろう、と思う。と書けば、甘んじて「天命」を受け入れるというような悲観的ニュアンスを感じるかもしれないが、決してそんなつもりはない。学校での勉強に限らず、その子の「分」の範囲で本人なりの最善を尽くすのが幸せというものだ。さて、私は珍種の「教育パパ」なのだろうか?それとも、ただの「放任主義者」なのだろうか?